川又千秋 邪火神 目 次  邪火神《じやかしん》  猫文法  ぬいぐるみ  初恋の街  時の砂  鏡の中のあたし  双星記  さあ、物語をはじめよう  邪火神《じやかしん》     1  正木憲吉博士が、ようやく南洋探険からおもどりになったと知らされ、僕はとるものもとりあえず、本郷《ほんごう》の正木邸へ駆けつけた。  昭和十四年、七月も末の暑い午後のことである。  外地へ旅立つ博士を、横浜の大桟橋に見送ったのが昨年の一月だから、もう一年半ぶり。  すっかり日に焼けたその懐かしい顔が、僕を出迎えてほころんだ。 「やあ! 進也君。早速訪ねてもらえるとは、うれしいねえ。さあ、二階の方へ上がってくれたまえ。家内はちょっと買い物に出ているが、すぐ美知子に、冷たいものでも運ばせよう」  博士は、くつろいだ飛白《かすり》の浴衣《ゆかた》姿だ。 「美知子さん、いらっしゃるんですね?」  編み上げ靴のひもを解きながら、思わず訊《き》いて、僕はひとり勝手に頬を赤らめてしまったらしい。 「なんだ!? 君の目当ては、美知子の方か」と、やり返される。 「い、いえ、そんな……」  慌てて否定するが、どうもしどろもどろだ。  もちろん、僕の第一の目的が、南洋の島々の調査行から帰国したばかりの、博士の土産《みやげ》話にあることは間違いない。  だが、それに加えて、博士の愛娘《まなむすめ》、美知子さんに会えるという期待も、決して小さなものではなかった。  そこをズバリ見透されてしまったように思い、僕はさらに顔が上気するのを感じた。 「さ、いいから、いいから……早く上がりなさい」  苦笑しながら、博士はうながす。  通された二階の洋室には、博士が持ち帰った研究資料であろう、大きな行李《こうり》や木箱が、所狭しと積み上げてある。 「見てのとおりだ。とても書斎には入り切らなくてね。これから、こいつを整理しなきゃならんと思うと、頭が痛いよ。かといって、他人にはまかせられんし……おっ! そうだ、進也君、夏休みの間でいいから、儂《わし》のアルバイタアをやらんかね。もちろん、日当ははずむよ」  椅子《いす》をすすめながら、博士が言った。 「日当だなんて、とんでもない! たとえ邪魔だと言われても、お手伝いさせてもらうつもりですよ」  僕の胸は高鳴っていた。  それら収集品の山からは、そこはかとなく異国の謎《なぞ》を秘めた香りがただよってくるようだった。それが、僕を興奮させていた。 「そうそう、君におめでとうを言うのを忘れておった。儂がいない間に、どうやら見事、帝大に合格したそうだね。で、専攻は何に決めたんだね?」  僕が握りしめている新しい角帽をちらりと見やりながら、博士が訊く。 「東洋史をやってみるつもりです」 「ほお、そいつは頼もしい。儂のやってる地理の分野とは、兄弟のようなものだ。ぜひ、明日から、この家へ通ってもらわなくちゃならん」  正木博士は、目を細めて、しきりとうなずいた。 「……お父上も、さぞかし喜んでおられることだろう」  僕の父と正木博士は、一高時代からの親友どうしだった。  二人はそれぞれ、実業と学問、別々の道へ進んだが、以来つきあいは途切れることなく、両家の間柄も、自然、そこいらの親戚《しんせき》以上に密接なものがあった。  僕もよちよち歩きの頃《ころ》から父に連れられ、しじゅうこの家に出入りしている。その意味で、正木邸は、僕にとって第二のわが家と言えた。  そして、博士のひざの上で聞かされた、見も知らぬ世界各地の珍しい話、怖ろしい話、不可思議な話の数々によって、現在の僕の学問的興味は決定づけられた。それは、確かだ。  僕が史学科に進みたいと言ったとき、父は、「しまった、あの正木に感化されすぎたな」と渋い顔をしたものだ。もちろん、そんなことは博士に黙っていた方がよさそうだ。 「失礼します……」  開け放したままの扉の外で声がした。 「あっ、美知子さん……」  僕は慌てて椅子から立ち上がり、ぴょこりと頭を下げた。 「……ごぶさたしています」  汗をかいたビール壜《びん》と枝豆の入った小鉢を盆にのせて、彼女が部屋へ入ってきた。  そして、僕をちょっと無視するように博士に向き直ると、喋《しやべ》り出す。 「ごぶさたもいいところですわ。ねえ、お父さま、聞いてちょうだい。進也さんったら、お父さまが南洋へお出掛けになってから、たったの二度、それも、お正月と大学合格のご報告のときだけしか、この家にいらしてくれなかったんですのよ。お母さまに言っても、進也さんは進学でお忙しいんだからって……でも、いくら忙しくても、あんまりじゃありません!?」 「そ、それは……」  僕はうろたえてしまう。  この家へ来たい気持ちは、それこそ抑え切れないほどだった。だが、正木博士に会うという口実もないのに、そう無闇にこの家の門をくぐるのは、どうしてもはばかられた。  美知子さんの方は、幼いときのまま、僕のことを本当の兄か何かのようにしか思っていないようだが、僕は、三つ年下の彼女を、妹だとは考えたくなかったのだ。  美知子さんは、口をとがらせ、机にのせたふたつのコップにビールを注ぐ。  しばらくぶりに見るその横顔は、また一段と輝きを増していた。まぶしかった。  僕は思わず目をしばたたき、うつむいた。 「美知子、そんな子供みたいなことを言って、進也君を困らせるもんじゃあない。それに、彼は明日から、毎日、この家へ来てもらうことになった。儂の仕事を手伝ってもらうのだ。いいかね? 進也君に嫌われたくなかったら、お母さんといっしょに、よくお世話して差し上げるんだぞ」  博士は楽し気に言って、ビールのコップに手をのばす。 「ほんと!? うれしい! じゃあ、夏休みの宿題なんかも、進也さんに教えていただけるわね?」  盆を胸に押しあて、美知子さんは歓声を上げた。なんとも無邪気な様子だ。それが僕には、ちょっとばかり物足りない。 「おい、おい……」  博士がたしなめるよりも早く、美知子さんはひらりとスカートの裾《すそ》をひるがえして、部屋から駆け出してゆく。 「まったく……一年以上も留守にしていたというのに、まるで変わっとらん……」  ぶつぶつ不平を洩《も》らす正木博士だが、その目は満足そうに笑っていた。  昭和の冒険家教授、地理学の風雲児などと呼ばれ、学界の大御所連に煙たがられるほどの異才である正木博士も、この一人娘にだけは、どうも分《ぶ》が悪いらしい。 「あんな娘だが、まあ、よろしく、つきあってやってくれ」  言いながら、僕にビールのコップを差し出す。 「遅ればせながら、合格おめでとう!」 「南洋探険から、無事御帰還を祝って!」  僕と教授は、コップを干した。  夏の日は、まだ高い。  ガラス窓を通して、午後の光が明るく射し込んでいた。  ひと息ついて、あたりを見回した僕は、そのときになって、この洋間にふさわしからざるものが、部屋の隅にちょこなんと置いてあるのを発見した。  それは、高さが二尺ほどの行燈《あんどん》である。  それ自体、別に何の変哲もないが、このすべてに欧風の洋間には、やはり場違いな感じがする。  そればかりではない、よく見ると、この明るさにもかかわらず、どうやら中で、確かに炎が揺れているようだ。 「博士、あの行燈、火を落とし忘れているんじゃありませんか」  僕は言った。  ところが、正木博士は、意味あり気に口元を歪《ゆが》め、首を横に振る。 「いいんだよ。あれも、儂が、今度の探険で持ち帰ったもののひとつなんだ」 「…………?」  僕は再び、目をこらした。  だが、どう見ても、それは、どこにでも売っていそうな和風の行燈である。 「違う、違う。あの行燈は、儂が物置きから引っ張り出してきたものだ。儂が持ち帰ったのは、あの中身……燃えている、火の方だ」  博士は、奇妙なことを言いだした。     2 「君は、かつてペルシャに、拝火《はいか》教なる宗教が存在したことを知っているね?」  博士が言った。 「ええ……紀元前七世紀頃、ゾロアスターが創始した宗教です。この世界は、暗黒神アーリマンと、光明神アフラ=マズダの闘争によって成り立っており、人間は光明神にすがるため、その象徴たる火を拝まなくてはならない、そう教えたとされています」  まるで、口頭試問でも受けているような気分になって、僕は答えた。 「よしよし……そのゾロアスター教はやがて中国に伝わり、|※[#「示+天」]教《けんきよう》と呼ばれた。六、七世紀の頃だ……」  僕はうなずく。 「また、儂の考えでは、どうやらこの拝火教、日本へも伝わっておるんじゃ……」正木博士は、にやりと笑う。「近畿《きんき》地方に残る遺跡には、明らかに、その祭壇と思える巨石がある……」  これには、ちょっと僕も、心の中で首を傾げた。  博士一流の大胆な推理であろうが、にわかには信じられない。 「まあ、それはともかく……」  正木博士は、横目で行燈をちらりと見やってから、先を続けた。 「拝火教とは言っても、ゾロアスター教の場合、火そのものが神であったわけではない。火は、あくまでも光明神アフラ=マズダの象徴にしか過ぎなかった。そうだね?」  僕は再び、うなずいた。 「ところが、だ……儂は、今度の探険行で文字どおりの拝火教に行き当たった。火そのものをあがめる習俗を発見したのだよ。しかも、それはただの火ではない。生きている火だ。生きていて、いけにえを要求する火の神だ。それを、儂は見つけたのだ」  博士の目が、熱気をはらんで、ぎらりと光った。 「生きている火、ですって?」  僕はまだ、話の筋がよく分らず、眉《まゆ》をひそめた。 「そのとおり。まあ、聞きなさい……」  博士は、椅子から立ち上がると、壁に掛けてある大きな世界地図の前に進んだ。  僕は子供の頃から、もう何百回となく、その世界地図を眺めながら、博士の話に耳を傾けてきたものだ。  そして、それは、ただの一回たりとも、つまらない内容であったためしはない。  僕は、期待に胸をときめかせながら、椅子の上で居ずまいを正した。 「儂は、今度の南洋探険へ出掛けるにあたって、ちょっと、軍のやつらをつついてやった。この先、諸外国の包囲陣がさらに強化されれば、日本はいやでも資源を確保するため、南方へ進出しなくてはならなくなる。そのときの橋頭堡《きようとうほう》たり得る内南洋の島々を、学術調査の名目で偵察《ていさつ》してきてやろう、と持ちかけたのだ。案の定、やつらは飛びついてきた。おかげで、資金は、実に潤沢だった……」  博士は得意満面といった調子で続ける。 「儂はまず、ミンダナオ島のダバオに仮設研究所を置き、そこを根拠地にして、海軍から借り受けた艤装《ぎそう》快速船・白鳥丸で、内南洋の知られざる小島を、ひとつひとつ調査していった。もちろん、莫大《ばくだい》な援助金をもらっている手前、軍のためにも少しは情報を集めてやった。だが、途中から面倒になって、あとはほとんどデッチ上げだ。あいつら、儂の報告をそのまま信じて、もし本気で戦争などはじめおったら、目を白黒させることだろうて……」  博士は、何はばかることのない笑い声をたてる。僕は、ちょっと身の縮む思いを味わいながらも、そんな博士に、ある種の痛快さも感じるのだった。 「……さて、話を本筋にもどそう……探険も後半に入った今年の四月、儂は件《くだん》の白鳥丸で、第五次探険航海に出掛けた。針路は東……ペリリュー、アンガウルをかすめ、そこからニューギニアの方へ、少しずつ南下していった。そして、イラワク諸島の北端で、海図に記されていない小さな島を見つけ、そこに上陸したんじゃ……」  世界地図を指でとんとん叩《たた》きながら、博士は記憶を辿《たど》ろうとするように天井を見上げる。 「……その島には、約五百人ほどの半裸の土人どもが暮らしておった。男も女も、体中に入れ墨をほどこしたすさまじいご面相じゃったが、根は優しいと見えて、海軍さんのラッパなどをくれてやると、意外にすんなり、村まで案内してくれたっけ……」 「その土人たちが、拝火教を?」  僕は思わず、身を乗り出す。 「うむ……そういうことだ。村へ入って、儂らは、まず土人の酋長《しゆうちよう》に引き会わされた。身振り手振りでなんとか話すうちに、彼らが、アジャカという一族であるらしいことが分ってきた。……さて、進也君も知ってのとおり、儂は今回で三度目の南洋探険だ。これまでに、もういい加減、土人たちの蛮習には見慣れている。ところが、どうして、このアジャカ族には、全く度胆《どぎも》を抜かれたわい」  博士はぎろりと目を剥《む》いた。 「それは、いったい……」 「……アジャカの村のはずれには、大きな岩で作った祭壇らしきものがあってな。まん中が炉のようになっていて、そこで火が燃えていた。あれは何だ? と訊くと、�ジャカシーだ�と答える。ジャカシーとは何だ? と追求すると、どうやら�神�のようなものであるらしい。しかも、ジャカシーという言葉は、そこで燃えている火そのものを指しているようだ。  そこで儂は、ポケットからマッチを取り出し、近くにあった枯れ木の先に火をつけてみた。そして、これはジャカシーか? と尋ねてみたんじゃ。ところが、誰《だれ》もが�違う。それはジャカシーではない。フィロだ�と言う。  ここで進也君にひとつ教えておくが、�火�を意味する言葉には、ほぼ世界共通の要素がある。それは、アルファベットならFとかPではじまる文字で書き表わせるということだ。  英語はfire、仏蘭西《フランス》語なら feu、独逸《ドイツ》では feuer と書く。これらはもちろん親類語だが、日本の�火�も古代においては�フィ�というふうに発音したのじゃ。この類似は、火を起こすときに、フーッと息を吹きかける音に原因があると考えられているのだが、ここから類推しても、どうやら、�フィロ�の方が普通の�火�を意味する言葉であるらしい……」 「じゃあ、ジャカシーは?」 「彼らは、それが神であり、フィロとは全く違うものだと言い張った。そして、ある夜、儂らは、とても正視できんような光景を目撃したのじゃ!」 「なんなんです!?」 「村に滞在して五日目だったか。儂らも、彼らの言葉が少しずつ分りかけてきたときだった。日没から一時間ほどして、天幕の外が騒がしい。首を出してみると、酋長が大慌てで走り回っている。何事かと尋ねてみると、ジャカシーがいけにえを欲しがって、不機嫌になりだしたのだ、と言う。それも、いつもの薪や枯れ草をいくら捧《ささ》げても一向に満足しない。野ブタやニワトリでも駄目だ、と言うではないか。  それなら、どうするんだと訊くと、あとは人間しかないだろう、と答える。儂らは緊張した。そんな土人の迷信のために、いけにえにされては堪《たま》らないからね。  しかし、酋長の言葉によれば、そういうときは、若い娘でなくてはジャカシーはおさまらない、という。儂らは、まず、ひと安心はしたものの、今度は、その非人道的行為が許せなくなってきた……」 「当然です!」  僕も、興奮気味に相づちを打つ。 「で、酋長に言ってみた。もし、そのジャカシーにいけにえをやらなかったら、どうなるんだ? とね。すると彼は、全身をぶるぶると震わせて、もしそんなことをしたら、ジャカシーは怒り狂って、この世界全部を灼《や》きつくして、つまり食いつくしてしまうだろう、と断言した」 「……まさか」 「もちろん、儂らも、そんな話を信じてはいなかった。よし、それなら、儂らの手で、そのジャカシーとやらを退治してやろうじゃないか、ということになった。さっそく、水兵の一人が白鳥丸にもどって、小型消火器を持ってきた。まあ、水をぶっかければ済むとは思ったのだが、何しろ、相手は、土人の神様だ。それなりに大げさに消しとめてやらなくては、アジャカ族も面子《メンツ》が立つまいと思ったのさ……」 「なるほど……」 「で、儂らは、あの祭壇の所まで飛んで行った。確かに、酋長の言うとおり、ジャカシーの火は、昼間とは比べものにならないほど、勢いよく、ごうごうと燃えさかっている。きっと、誰かが、油か何かを投げ込んだのに違いない、と儂らは思った。あるいは、その祭壇の下から、天然ガスのようなものがいつも吹き出していて、それがちょうど、大量に噴出してきたのかもしれない……ともかく、儂らは、若い娘さんひとりを救うため、その火を消しとめてしまう決心だったのだ。ところが……」 「ところが?」 「……消火器をかかえた水兵は、酋長たちが引きとめようとするのを振り切って、ジャカシーの火に近付いた。そして、放射弁を開いた。その途端……儂らの目には、その火が、まるで生き物のように立ち上がり、炎の両手を差し出して、水兵を抱きかかえたように見えた……」 「そんな……馬鹿な!」  僕は思わず叫んだ。 「いや、その馬鹿なことが、実際に起こったのだ、儂らの目の前で!」  正木博士は、こぶしを握りしめ、また、ちらりちらりと行燈の中で揺れる炎に目をやりだした。 「教えてください! 結局、そのジャカシーの正体は何だったんです!? 石油か、天然ガスか……それとも……」  しかし、正木博士は、僕の質問に直接答えず、言葉を継いだ。 「……水兵の姿は、たちまち炎の中に吸い込まれて見えなくなった。それどころか、ジャカシーの火は、ますます猛り狂ったかのように火勢を強める。ついに、祭壇に近いヤシの林や、村の草葺《くさぶ》き小屋までが燃え出した。  酋長は、儂らのことを口を極めて罵《ののし》った。余計な手出しをしてジャカシーを怒らせたから、もういけにえは、一人では済むまい、と言う。ほかの土人たちも、儂らに向かって石を投げつけてきはじめた。儂らは仕方なく、それを避けながら、後退した。その間に、酋長や村の長老たちは、泣き叫びながら押し出されてきた土人の娘二人を担ぎ上げると、掛け声とともに、その火の中に投げ込んでしまったのだ……」 「なんて……むごい……」  いかに蛮族の風習とは言え、その娘たちの恐怖と苦痛を思うと、僕は居ても立ってもいられない気分になる。 「……しかし、だ……その娘二人を呑《の》み込んで、ひとしきり天を衝《つ》くように燃え上がったジャカシーの火は、次の瞬間、まるで、何事もなかったかのように、すうっと収まりだしたではないか。土人たちが歓声を上げるさまを、儂らはただ、呆然《ぼうぜん》と見守っているしかなかった。間違いなくいけにえの効果はあったのだ……しかも、それまで延焼確実と思われていた背後のヤシ林や、村の小屋の火までが、さっといっしょに退いてしまったのには驚いた……確かに、これは、どうもただの焚《た》き火じゃないらしい……儂らはそのとき、はっきりとそれが分った」 「じゃあ、じゃあ……それは、いったい、なんだったんです!?」 「ジャカシー……儂らはそれに�邪火神《じやかしん》�という文字を当てることにしたんだよ」  正木博士は、人指し指をのばすと、空中に大きく、その三文字をなぞってみせた。 「邪火神……」  つぶやいて、僕はハッと気付いた。 「まさか……いや……博士! 博士が持ち帰ってきたというのは、その……」     3  僕は、昼間だというのに、ちらちらと小さな炎の影を躍らせている行燈と、博士の顔を交互に、いそがしく見比べた。 「……持ち帰ったというより、邪火神の方が、儂らについてきたと言った方が、本当は正確なのだ」  正木博士は、ちょっと疲れたような声を出した。 「次の日、夜明けと同時に、儂らは白鳥丸でこの島から離れることに決めていた。なにしろ、水兵一人が、訳の分らないもののためにこの世から消えてしまったんだからね。儂はもう少し居残って、その正体を確かめたかったが、白鳥丸の艇長がどうしても承知しない。そこで仕方なく、天幕をたたみ出した。  そのうちに、朝日がのぼってきたので、作業用に燈《とも》していたローソクを消そうとした。ところが、これが、いくら強く息を吹きかけても消えない。指先で芯《しん》をひねりつぶそうとすると、突然、ものすごい勢いで燃え上がる。誰かが、それは邪火神じゃないか? と言い出した。その一言でみんなはおびえ、ローソクをそこに残して、早々に退散しようとした。  ところが、そうすると、今度は、その火が天幕に燃え移る……天幕をすてれば、今度は雑嚢《ざつのう》に燃え移るといった具合で、どうしても逃げ切れない。なにしろ相手は、ただの火じゃない。どうも、儂らの考えなどお見通しらしくて、次から次へ、ひょいひょいと、文字どおり飛び火する。  そんな騒ぎを続けていると、村の方から酋長や長老たちが、ぞろぞろと儂らの方へやってきた。そして、�ジャカシーはあんたたちといっしょにどこかへ行きたがっている。もし連れていかないと、あんたたちは皆、その怒りをかっていけにえにされてしまうだろう�などと、不気味なことを言い出す。そこで仕方なく、儂らは、邪火神をローソクに移し、船へと持ち帰ったというわけだ……」 「……でも、海上へ出てしまえば、なんとでも、やりようがあったでしょうに。例えば、ローソクを甲板から海へ投げるとか」 「それをやろうとして、水兵がもう一人死に、白鳥丸は火災を起こすところだった」 「じゃあ、全員船をすてて、岸まで泳いで逃げるとか」 「白鳥丸は、残念ながら儂の船じゃあないんだ。小なりとは言え、大日本帝国海軍の船籍に入っておる。つまりは陛下の持ち物だ。それを、そんな土人の迷信を理由にすてられやしない。しかも、この邪火神というやつ、ローソクが滅法お気に入りらしくて、こいつを食わしてやっている間は絶対に悪さをしない。黙って、ただ燃えている炎も同じなんだ」  正木博士のその言葉で、僕はふと、自分が博士に担がれているのではないか、という疑問を持った。  ローソクの芯で燃えている限り、普通の火と変わらない……そんな言葉を信じて、怖る怖る炎を眺めていると、いきなり博士が大笑いをはじめるのではないか、と考えたのだ。  これで博士は、相当のいたずらっ気のある人物なのである。 「博士、それじゃあ……」 (だまされませんよ)というつもりの薄笑いを浮かべて、僕は言った。 「……その行燈の中の火が、ただの火じゃないってことは、つまり邪火神とかいうものだというのは、どうやって見分けられるんです?」  僕のその質問に、しかも意外にも、博士は真面目《まじめ》きわまりない表情でうなずき返してきた。 「よし、君には、それを見せてあげよう。ただし、他言は無用だ。特に、美知子や家内には絶対|喋《しやべ》ってくれるな。儂の研究のことで、無用な心配はかけたくない」  言って、博士は、行燈に近付いた。下の方から手を差し入れ、もう、大分短くなったローソクが立っている火皿を取り出してくる。  そして、それをテーブルの上に置いた。 「……いいね、進也君……このまま放っておくと、蝋《ろう》は自然に燃えてなくなってしまう。そうすれば、火も当然、消えてしまうわけだが……」  つぶやきつつ、博士は、壁際の戸棚から、別の新しいローソクを持ってきて、その火皿の横に立てた。 「……まあ、見ていてごらん……」  一分も経たずに、火皿の上の最後の蝋が融けだした。炎はちらちらと、消え入る前の不安定な光を放ちはじめる。  僕はそのときまだ、この話全体が博士の周到な冗談なのではないかと疑っていた。  かたずを呑んで見守るうち、炎はふっと消えてしまって、大笑い……そういう筋書きを思い描いていたのだ。  案の定、炎はますます小さくなる。今、ちょっと息を吹きかければ、あっけなく冗談を終らせることができるだろう。  だが、僕は待った。  だまされた振りをして、ここは正木博士に花を持たせてやるべきだ、そう思ったからだ。 (なにしろ、博士は美知子さんの父上だ。ということは、いずれは僕の……)  そんな不埒《ふらち》なことを考えようとしたその一瞬!  いきなり、炎がかま首をもたげた。  少なくとも、僕にはそう見えた。  そして、そのまま、まるで獲物に襲いかかる蛇のような素早さで、もう一本の新しいローソクに跳び移ったではないか。  そして、何事もなかったかのように、平然とそこで燃えはじめる。 「…………!」  僕は声を立てることもできなかった。  思わずのけぞって、椅子の背に頭を打ちつけてしまう。 「……見ただろう……これが、ただの火であるわけがない。ジャカシー……邪火神だ」  博士が、押し殺した声でつぶやく。 「こ、これは……その邪火神というのは、いったい、何なんです?……本当に、生きている火……火の神だとでも?」  気を取り直して、僕は、やっと、それだけ言った。 「分らん……儂にも、はっきりとは分らん。だが、少なくとも、こいつが、ある種の意識を持った存在であるのは確かなようだ。そう……その意味で、未知の生命体と呼んでもよかろう……」  博士は、ローソクを火皿に移し替え、それを慎重に、行燈の中にもどした。 「未知の生命体……大変な、発見だ……」  僕は、唸《うな》った。 「未知と言っても、決して科学の原理を覆《くつがえ》すような、つまりは、幽霊や亡霊の類とは違う。我々も含めて、あらゆる生き物というのは、皆、身体の中で、少しずつエネルギーを燃やして生きている。そう考えれば、この邪火神は、それを直接的に行なっているだけの生命体とも考えられる……ともかく、儂は、きっとこの正体を突きとめてみせる……」  正木博士は、微《かす》かにまなじりを吊《つ》り上げた。 「この邪火神をうまく利用することができさえすれば……そう……この次に起こる大戦は、これまでと全く異なった形相を呈するに違いない……」  僕はそのとき、生まれてはじめて、正木博士に対して恐怖を感じた。 「しかし……危険はないんですか? もし、邪火神が、勝手に、いけにえを求めて暴れ出したら、どうなさるおつもりですか?」  しかし、その答を博士の口から聞くことはついにできなかった。  そのとき、階下から、夕食の用意が整った旨を告げる美知子さんの弾んだ声が響いてきたからだ。     4  夏休みは、何事もなく、そして忙しく過ぎた。  僕は毎日、正木家に通い、博士が南洋で収集してきた無数の資料の整理を手伝った。  中には、軍事機密に属する書類や地図もあり、そうしたものが出て来るたびに、海軍や陸軍の将校がやってきては、それを引き取ってゆく。  その彼らが、僕を間諜《かんちよう》か何かのようににらみつけるのには腹が立ったが、それ以外は、実に楽しく、また有意義な勉強ができた。  また、正午のサイレンの後の、邪火神のローソク替えが、いつの間にか僕の仕事になっていた。  この、何とも不気味な炎の生き物も、規則正しくローソクを与え続けてもらっている限りは、おとなしく飼い慣らされているように見えた。  僕は次第に、その邪火神というものが、正木博士の手品のようなものだったのではないか、と思いはじめるようになっていた。  どう見ても、それは、小さな、ただの炎だった。  少なくとも、正木博士が語った、あの南洋での悪夢のような出来事が、この小さな炎によって引き起こされたとは思えない。  ちょっと息を吹きかけてみたら……あるいは、ローソクの交換を怠ったら……僕は幾度もそれを頭の中では考えた。  だが、万が一のときには、僕ばかりでなく、正木家の全員、ことに美知子さんにまで、その呪《のろ》いがかからないとは限らない。  それを思うと、僕は、どうしても、そんな真似《まね》をする気にはなれなかった。  やがて、その夏期休暇も、ついに終る日がきた。しかし、今後は、週に一度、美知子さんの勉強を見るために、必ず正木家を訪れるという約束もできていた。  つまり、僕としては、あらゆる意味で大戦果の夏休みであったわけだ。  …………  それから、二週間ほど経ったある日の真夜中、突然、正木博士から僕に電話が入った。  遠い電話口で、博士は明らかにうろたえ切っている様子だ。 「進也君か! 頼む、すぐ、儂の家へ急行してくれ! 大変なんだ、大変なことが起こりかねん!」 「どうしたんです、いったい!!」 「儂は今、軍の仕事で地方に出張中だ。機密に関することだから、場所は言えんが、とにかく東京ではない。出張前に、あ、あの邪火神のための、ローソクを留守の間中もつようにと与えてきたのだが、今になって、一日分、勘違いして、少なく立ててきたことに気付いたんだ! 進也君! 儂が頼めるのは君だけだ! 家の者は、まだ、あれのことを知らん。それに、今、それを教えるわけにもいかん。すぐ、儂の家へ行って、邪火神にエサをやってくれ。それができるのは君だけだ。さもないと……」 「分りました!」  僕も慌てた。  両親には、正木博士が、大切な研究資料を家の近くで落としたらしいので、探すのを手伝いに行く、と言いおいて、夜の町に飛び出す。  博士の家までは、走って二十分くらいか。  しかし、道のりを半分も行かないうちに、前方の空が赤く染まり、けたたましい半鐘の音が響きはじめた。  すぐそれに応えるように、消防自動車のサイレンが、遠く近く、悲鳴を上げだす。  僕は、心臓をぎゅっと握りつぶされでもするような不吉な思いに耐えて、ただ、ひたすら夜道を走り続けた。  僕の回りに、どんどん野次馬が増えてくる。  皆、走る方角は僕と同じだ。  もはや、悪い予感が現実であるのは明らかだった。  現場へ到着した僕にできたのは、茫然《ぼうぜん》自失の体で道端にへたり込んでいる正木家の母娘《おやこ》を、危険の少ない所まで避難させることだけだった。  火事は、明け方近くまで燃え続け、十二軒を全焼させて、ようやく収まった。  原因は、出火当時の火勢が余りに激しかったことから、油や爆発物等を用いた悪質な放火であろうと発表された。  正木家に恨みを持つ者という線での捜査も行なわれたようだが、結局、犯人は見つからずじまいに終っていた。  それもそのはずである。  だが、真実を知る人間は、博士と僕の二人しかいなかった。  放火と推定されたとは言え、出火元となった正木家は、もはや、その土地に居続けることはできなかった。  翌月明けて早々、土地を売り払って、それを類焼十一軒に対する見舞い金にあてた正木家は、逃げるように東京を離れていった。  僕の家にさえ、落ち着いたら改めて、と行き先を告げない慌ただしい出発だった。  両親の落胆は大きかった。しかし、それ以上に、僕の失意は深かった。  もう一人の父とも頼む正木博士、それに、ほのかな、しかし唯一想いを寄せていた異性である美知子さんを同時に失い、僕はそれから半年ほどの間、勉強が全く手につかなかった。  そして、おかげで、みじめにも一年落第の烙印《らくいん》に甘んじなくてはならなかった。  新たにめぐってきた一年の一学期、ようやく気持ちを立て直して、大学へと通いはじめていた僕の所へ、一通の封書が届いた。  差し出し人の住所はない。  しかし、そこに墨跡もくっきりと記されているのは正木憲吉の名前だ。  僕はぶるぶると震える手で、その封を引き破った。  進也君、元気で勉学にはげんでおられることと思う。あんなことになってしまい、我ながら、何と申し訳してよいものか、未だに見当もつかぬ。ただ伏して謝るばかりだ。家内、それに美知子は元気にしている。私は、今、軍の仕事で広島にいる。君にだけはこっそり教えておくが、私は、失火事件の前に、あの邪火神を、株分け(おかしな言い方だが)して、海軍と陸軍へ渡しておいたのだ。  今は、その邪火神のひとつとともに、ここにいる。こうした研究は、専門外だが、とにかく発見者ということで、半ば、ここに閉じ込められているのだ。今、休暇で研究所を脱け出し、これを書いている。家族は、全く別の土地にやってある。しかし、いずれ、時期がきたら、美知子のことは、君に頼むつもりだ。そのときは、きっと君の所へ送り届ける。それまで、何とか、あれのことを待っていてやってくれ。  だが、それにしても、私には、どうしても拭《ぬぐ》い切れない疑惑、不安がある。私の株分けした邪火神の居所は分っている。だが、私が本郷の家に置いていた邪火神は、いったい、どこへ雲隠れしてしまったのか——いや、消火などされる代物《しろもの》でないことは、私が一番良く知っている。やつは、どこか居心地のいい場所を見つけたからこそ、あの火事を途中でやめて、現場から引き上げたのだ。  そのやつが、今、どこに、何を考えて身をひそめているのか——それを考えると、心配で夜も眠れなくなる。これは、我が大日本帝国の将来にも関わる重大事なのだ。進也君——もし、やつをどこかで見かけたら、すかさずローソクに乗り移らせ、そして広島の軍司令部へ知らせてくれ。だが、他言は一切無用。頼む……何とかしてくれ……  その翌年、十二月八日。日本は、ついに大東亜戦争に突入した。  そして、僕は、昭和十八年九月、帝大を繰り上げ卒業後、陸軍の特別操縦見習士官として航空部隊に配属された。  二十年、三月十日夜……  僕は、二式複座戦闘機≪屠竜《とりよう》≫の操縦席にあって、地上から投げかけられる探照燈の光芒《こうぼう》に捕捉《ほそく》されながらも、悠然と上空を飛び去ってゆくボーイングB‐29スーパー・フォートレスのジュラルミンのきらめきを見つめていた。  もはや、眼下の火焔《かえん》地獄を見下ろす勇気はない。邪火神は、積年の雌伏のうらみを晴らさんとするかのごとく、ただ思うさまに荒れ狂っている。  屠竜の二基の発動機は、すでに限界を越えていた。悲鳴のような爆音が、やがて喘《あえ》ぎに変わる。  それでも、B‐29はさらに高空にあった。 (もう……駄目だ……)  何もかもが終ったことを、僕は知った。  正木博士の不吉な予言は今や真実となったのだ。  あとは、東京以外、二か所にあるという邪火神を博士がなだめおおせることができるかどうか……この国の運命は、それにかかっていた。  僕はすでに限界一杯まで倒してあるスロットルを、さらに叩きつけた。比較的、低高度を飛ぶB‐29に狙《ねら》いをつける。ゆるゆると、その巨体が眼前に迫ってきた。  ガンガンガン……  機体のあちこちを、B‐29の搭載機銃座から発射される十二・七ミリ弾が刺し貫いて過ぎるのが分る。  瞬間、ガクンと大きな衝撃がきた。  同時に、屠竜の左翼発動機がグワッと白熱した炎を吹き出した。  僕はそのまま、何の感興も湧《わ》かぬ静かな気持ちで、ジュラルミンの巨体めがけて屠竜の鼻面を突っ込ませた。     5  僕は、奇跡の生還を遂げた体当り隊員の一人である。  推力を失った左翼発動機が、僕の乗機を大きくロールさせたことが、僕の運命をカミソリ一枚のところで生へと旋回させたのだ。  屠竜の右翼先端が、B‐29の尾部をざっくりと切り裂いたところまでは、かろうじて覚えている。  次に気が付いたとき、僕は落下傘にぶら下がって、燃えさかる大東京を眼下にしていた。  僕は、ただ一個の撃墜マークを勲章に終戦を迎えた。  正木憲吉博士は、広島で死亡していた。  僕の両親は、東京大空襲の犠牲者だった。  終戦の翌々年、僕は微かな風のたよりにすがって正木母娘の居所を突きとめ、美知子と結婚した。  今、僕の家には、ふたつの仏壇がある。  そのひとつには、ただ一本のローソクだけが飾ってある。そこで燃える炎は、正木憲吉博士の仮葬儀にひょっこりと現われた邪火神の片割れだった。  消したはずのローソクが翌朝ともっているのを見て、僕はひと目でそれに気付いた。だが、邪火神が、なぜそこに還ってきたのかは分らない。  以来、その炎のために、僕はローソクを絶やしたことがなかった。  美知子は、僕が戦争の後遺症で、精神を若干病んでいると思い込んでいる。  それは、それで構わない。  彼女も、僕のこの家庭内での奇行は黙認してくれていた。  しかし、僕が外出のたびに、数本のローソクを携行しようとする悪習だけは、なんとかやめさせようと考えているらしかった。  それでも、僕は頑固だった。  邪火神が、いけにえを求めて新たに動きだすまえに、何としてでもそれを見つけ出し、祭壇に祭り上げる神官が必要だった。そして、それができるのは僕だけだった。  さもないと、飢えた炎《ほむら》は、今度こそ本当に全世界を灼きつくしかねない……。その時が近いことを、僕ははっきりと感じていた。  猫文法 「……グルニャーア、グルル」 (うーむ、もう朝か……)僕はちょうど良い具合に暖まっているベッドの中で、嫌々ながら身じろぎした。(ええい、いったい、何時なんだ……)こっそり、目を開く。しかし、あたりはまだ暗い。六時を回ったか、回らないかの時間だろう。 「グルニャーア、グルニャーア……」  ミリイが耳元で再び鳴いた。  これはもう、僕にとっておなじみの猫語だ。グルニャーア、と語尾を上げる。どちらかと言えば命令口調のイントネーションだ。つまりミリイは、(メシをくれや、おい、メシ)と繰り返しているのだ。 (ウムムムム……)  僕は毛布の奥へもぐりこみながら、小さく呻《うめ》いた。(全くまずいクセをつけてしまったものだ……)と寝ボケ頭で、毎朝のように反省する。  ミリイをペット・ショップで見初《みそ》めたのは、暑い盛りの八月だった。  ちょうどその頃《ころ》、僕は健康のために早朝の散歩風ジョギングを日課としていた。夏だから当然のことながら日の出は早い。僕は五時半にベッドから起き出し、まずコーヒーを一杯、そして六時には散歩へ出かけるというスケジュールを実行していた。  猫のミリイを家へひきとってからは、このコーヒー・タイムにキャット・フードを盛りつける、という儀式が加わった。  我が家の住人となって一週間も経つと、子猫のミリイはこのリズムを覚えこみ、五時半にはきまって僕を起こしに来るようになった。  のそのそ、と足の方から胸へ這《は》い上がってきて、その鼻面を僕の顔に押しつける。そして、「グルニャーア(メシをくれや)」とやるのである。  最初のうち、これは全く便利な目ざまし時計に思えたものだ。  なにしろ、ネジの巻き忘れや、セットの間違いを心配する必要がない。しかも正確に、しんぼう強く、僕が目を開けて起き上がるまで「グルルルル……」とノドを鳴らし続けてくれるのである。  おかげで、僕は夏中、この早朝の日課を欠かさず実行することができた。 「しかし、律儀《りちぎ》なもんだなあ。毎朝、ぴたり五時半になると起こしにくる。どうやって時間を確かめるんだろう……」  僕は本気でこれに感心した。 「やはり、日の出を目安にするんだろうか……まさか、時計の針を読むわけじゃなかろうし……」  朝にはまるで弱かった僕も、この優しい生きた目ざまし時計には大満足だったのだ。  ところが長かった夏も終り、木枯しが吹きはじめたというのに、ミリイの朝の習慣に全く変化が見られないことを発見して、僕はいささかあせりはじめた。  季節が移れば、当然日の出は遅くなる。それにつれてミリイの目覚ましタイムも自然に遅くなるに違いない、と勝手に思い込んでいた僕が甘かったのだ。  ミリイの時間感覚がそうした相対的判断基準によるものではなく、絶対的な、生物の体内時計によるものらしい、と気づいた頃《ころ》、朝の五時半や六時は、すでに真っ暗という季節になってしまっていた。  しかも、冬の朝は寒い。  僕はなんとかミリイの朝の習慣を三十分でも四十分でも遅らそうと努力を続けた。せめて七時、いや六時半まで起床時間をのばしたかった。  しかし、三つ子の魂はなんとやら。子猫の間に叩《たた》き込まれた習慣を、ミリイは全く変える気がないらしい。とにかく、五時半から僕が目ざめるまで、ミリイは「グルニャーア(メシをくれや)」と「グルルルル……(おい、起きろよ、おい……)」を僕の胸の上で続けるのだ。  僕はミリイの声を聞きながら、目蓋《まぶた》を固く閉じ直した。どうしても今は起きたくなかった。昨夜、というより、今朝のウイスキーが、まだそのまま体内に残っていて気持ちが悪かった。  しかも布団一枚外は、まるで別世界のように厳しい朝の冷気が張りつめている。 「グルルニャーア! グルニャーア!」  ミリイの声が次第に警告の響きを帯びはじめた。  ミリイは僕の帰りが遅かったことでも、かなり腹を立てている。加えて、朝メシもよこさんとは何事だ! というわけだろう。  胸の上で、ふっ、とミリイの立ち上がる気配がした。  途端、パチ、パチ、パチン、と頭上の蛍光燈がともる。寝室が、まぶしいその明りで満たされた。 「うぐ、うむむむむ……」  僕はついに声を出して唸《うな》った。これをやられては寝ているわけにいかない。「よし、よし、分ったよ……もォ」  この蛍光燈つけは、ミリイの得意技のひとつだ。  ものぐさな僕は、ベッドに横になったまま蛍光燈をつけたり消したり出来るよう、スイッチのヒモを長くのばしている。ミリイはそれを両方の前肢ではさんではひっぱり、勝手に部屋を明るくしてしまうのである。  ひとりで留守番している間など、これをつけたり消したりして遊んでいるらしく、暗いはずの家の中に燈りがともっていて驚かされたこともある。  フスマを開けるだけならどんな猫でもできるが、これを閉めるようになったら化け猫一歩手前だ、と言われる。ミリイの蛍光燈つけは、どのあたりにランクされるのだろうか。  ……などとブツブツ考えながら、僕は仕方なしに意を決し、毛布から這い出ると、ガウンをまとった。  キッチンへのろのろ入りこむと、キャット・フードの缶詰をあけ、ミリイの朝食を盛りつけてやる。 (ああ、どうにかして、このミリイに、あと一時間、いや四十分でも遅く起きるよう説得できないものだろうか……僕はミリイの猫語が大体は理解できる……ミリイはミリイで僕の喋《しやべ》る人間の言葉がある程度は分るらしい……しかし、これではお互い一方通行で、本当のコミュニケーションとは言えないんだ……いざ、話し合いが必要な時に、僕は猫語が喋れないし、ミリイも人間の言葉が話せない……)  僕はぼんやりと椅子に腰を下ろし、満足気にノドを鳴らしながら朝食に顔を突っ込んでいるミリイの様子を眺めていた。 (うーむ、なんとか、こいつと共通の言語を見つけられないものだろうか……)僕は寝ボケまなこをこすりながら、その日はじめての煙草に火を移した。  ようやく窓の外に朝日が射しはじめる。 (もしミリイと話ができるようになったら……)僕はこの猫に言ってやりたいことがいくつもあった。まず第一に、冬季は七時以降(できれば八時過ぎに)朝食を要求すること。夜中は絶対に蛍光燈を勝手に点《つ》けないこと(何度ぎょうてんして跳び起きたかしれない)。仕事中に万年筆とじゃれないこと。同じく、原稿用紙の上に座り込まないこと。それと、原稿をのぞきこんで冷笑的な表情をしないこと……などなど。  それに、足をびしょびしょに濡《ぬ》らしたまま、書きかけの原稿の上を歩き回ってはいけない、とも言ってやらなくてはなるまい。  僕の猫とのコミュニケーション計画は、こんなたわいもない理由からはじめられたのだった。  …………  …………  もとより僕は生物学や、動物言語を研究する比較心理学などの研究者ではない。だから、学問的成果や、科学的野心などとは縁がなかった。  と同時に、心を開けば、どんな動物とでもお話ができるなどと信じこめるほど幼くもなく、また夢想家でもなかった。  ただ、何となく、猫ぐらいとなら、最低限のコミュニケーションを相互に確立できそうな、妙な自信は感じていた。  見も知らぬ異星のエーリアンと意思疎通を計ることを考えたら、同じ地球の、しかも同じ日本で生まれた、温血の哺乳《ほにゆう》類が相手である。  先祖をはるか辿《たど》ってゆけば、この猫ともどこかで血縁関係になるはずだ、という生物学的親密感も僕をはげました。  そこで僕は、ヒマを見つけては、猫のミリイとのコミュニケーションの糸口になりそうな資料を集めはじめた。  まず第一に考えたのは、僕が猫に歩み寄って、ミリイの猫語を習得できないものか、ということである。  ダブリン生まれのミステリ作家パトリシア・モイーズ女史は、アガサ・クリスティを継ぐ本格派の女王として日本にもファンが多いが、彼女はまた大の猫好きとしても有名だ。  モイーズ女史には、猫との交流の秘密を公開した『猫と話しませんか?』(晶文社)という、そのものズバリの著書があり、僕はまず、このあたりから手をつけてみることにした。  女史は、その書物で、一般的な猫のヴォキャブラリイには『喉《のど》を鳴らす』という無意識的な反応に加えて十二のパターンがある、と分析している。  即ち、『歓迎する』『情報を伝える』『要求する』『不満を訴える』『恐慌をきたす』『抗議する』『憤慨する』『怒る』『おどしをかける』『求愛する』『あなたに呼びかける』『無音の叫び』がそれであり、飼い主はこれをもとに「自分のネコの話しかたのニュアンスに耳を慣れさせる必要がある」のだそうだ。  なるほど、これが基本猫会話ということなのだろう。まずそれを正確に聞きとり、そしてこちらで発声できるようになれば、まあ日常、家庭内の会話ぐらいは用が足せそうだ、と僕は思った。  考えてもみて欲しい。人間だって、フロ、メシ、オチャ、ネル、程度の貧弱なヴォキャブラリイで結構幸福な家庭生活を営んでいるのだ。猫と人間の結びつきには、この十二パターンくらいがちょうど良いところであろう。  そこで、僕はミリイの猫語をきちんと記録してみることにした。  グルニャーア=メシをくれや  これは非常にはっきりしている。モイーズ・パターンの『要求』にあたるのだろう。しかし、この言葉を、人間から猫に対して使う場面はあまり考えられないので発声練習は必要ないだろう。  次にミリイのよく使う言葉……。  グルニア=遊んでくれや  これは短く発音し、「グルニア、グルニア、グルニア」というように幾度か重ねて使用する。これは一見要求だが、実は退屈しているのに相手にしてもらえない時、強い調子で主張する言葉だから『不満』と分類できるのではないか。  歓迎は、小さな声で、  ミイ=もお!(また変な人を連れて来て)  情報は、  ミャア!?=見たあ!?(怖い大型犬などを目撃した時)  ミャオ、ミャオ!=大変、大変!(灰皿が落ちてる!……実は自分で落としたのに、こう言ってとぼける)  抗議は、  グルルニャ!=(知らんぷりしてると)暴れちゃうぞ!  などなど……。  ところが、この分類ノートをつけはじめて、僕は我が家のミリイが思った以上に無口な猫だと改めて気付かされた。  ミリイは長毛種に属するペルシャ猫の雌。『猫と話しませんか?』の中でモイーズ女史も繰り返し言及しているが、世界の猫の中で、最も語彙《ごい》が豊富でお喋《しやべ》りなのはシャム猫で、その反対に、最も声を出すことをおっくうがるのがペルシャ猫なのである。  どう記録しようにも、ミリイはこれまでに挙げたいくつかのパターン以上はほとんど喋ろうとしない。これには困った。  何とか喋らせようと、いろいろなでくり回してみたり、呼びかけてみたりするのだが、ミリイの答は、きまって、  グルル……=何だい……(ウルサイナ)だけなのである。  いくらなんでも、これだけでは満足なコミュニケーションは成立しそうにない。  ここで、僕の≪猫会話習得計画≫は一頓挫《いちとんざ》と相なった。  結局、パトリシア・モイーズ女史の『猫と話しませんか?』は、彼女の飼っている二匹のシャム猫がいかに喋り上手で利口かという自慢エッセイでもあるために、内容をそのまま応用できるわけではないらしい。僕はちょっと失望した。  しかし、にもかかわらず、僕はこの本から猫とのコミュニケーションの基本となる数多くの事柄を学んでいた。それが後になって、さまざまに役立ってくるのだが、その時の僕はまだそれに気付いていなかった。  さて、そうこうするうちに何週間かが過ぎていった。  ある日僕は、小説の材料を集めるため、知り合いのアニメ・スタジオを訪ねて数本のヴィデオ・テープを見せてもらっていた。  それは主に兵器や軍事情報に関する特バンの録画で、ヴィデオの装置を持っていない僕は、しばしばこうして見のがした番組を補充することにしていたのだ。  目的の録画をひと通り見終え、他に何か掘り出し物は、とヴィデオ・ライブラリイをのぞいていた僕は、≪チンパンジーの手話/ワッショー≫とラベルにあるかなり古い一巻のテープを見つけ出した。 「何だい? これは……」  僕はそれをスタジオの友人に差し出した。 「ああ……これは、田中が録《と》っておいたんじゃないかな。あいつ、動物が好きだからなあ」 「この、チンパンジーの手話ってのは、どういうこと?」  僕はテープを彼に渡しながらなおも訊《き》いた。どこか、ピンと来るものがあったのだ。 「うん。確かね、そのワッショーとかいうチンパンジーに手話を教えるドキュメンタリイだったと思うなア。ほら、チンパンジーって声帯が人間と違うからコトバを教えてもほとんど喋れないんだ。そこで、なんとかいう学者が、手話ならできるんじゃないかって試してみるオハナシだったはずよ」  友人はその番組をうろおぼえながら説明して、カセットテープをヴィデオにセットしてくれた。 「まあ、ヒマだったらこれも見て行けばいいじゃない。ただし、武器はまるで登場しないけど」  兵器キチガイの彼は、そのヴィデオに全く関心がないらしく、セットが終ると自分の仕事部屋へと引き上げて行った。  ……番組が始まった。そして僕はそれからの一時間、完全にそのドキュメンタリイ録画のトリコになってしまったのである。  それはまさに、僕の探していた資料、そのものだったのだ。  ヴィデオを見終ると、僕は友人へのあいさつもそこそこに、スタジオをとび出した。  そのままタクシーにとび乗って、新宿の大きな書店に駆けつける。  もちろん、今ヴィデオで見たワッショー、及び、チンパンジーの手話学習に関する文献を探すのが目的である。資料はノッてる内に漁《あさ》れ、これが僕の鉄則なのだ。  それはすぐに何冊も見つかった。  アライン・アモン著『チンパンジーの言語学習』(玉川選書)、A・プリマック著『チンパンジー読み書きを習う』(思索社)、E・リンデン著『チンパンジーは語る』(紀伊国屋書店)……などなど。  僕はそれらを買い込むと、大急ぎでミリイの待つ家へとって返した。  ミリイとのコミュニケーション計画の糸口がようやく見つかったらしい。  僕は口笛でも吹きたい気分だった。僕と同じようなことを考え、すでにチンパンジーで試していた人々がいたのだ。しかも、ヴィデオや文献のひろい読みで得たかぎりの知識によれば、その試みは見事に成功していたのである。 「ミリイ! ミリイ! おまえさんと、何とか話せそうな気がしてきたぞ!」  僕はドアを開けて家へ飛び込んだ。 「ミイ……ミイ……」  ミリイはかなり不機嫌な表情で僕を迎えた。「グルルルルル……」とにらみつける。  そんなミリイに好物のプリンを与えると、僕は午後の予定を変更して、買ってきた資料に読みふけった。  それらはすべてが、完全に学問的に認定され、オーソライズされた事実であるにもかかわらず、僕にとって相当に驚くべき実験報告と思えた。  一般にも余り知られてはいないと思うので、研究の歴史をかいつまんで説明しておこう。  昔からチンパンジーやゴリラ、オランウータンなどの大型類人猿がかなりの知能を有しているらしいことは多くの人によって認められていた。  しかし、それが人間と比較してどの程度なのか、はっきりしたことはつかめていなかった。  そこで、生まれたばかりのチンパンジーを人間の赤ん坊といっしょに育てたらどうなるか、という実験が、まず一九三〇年、アメリカで行なわれた。  人間の子どもが赤ん坊のうちに狼《おおかみ》にさらわれ、その群のなかで育てられる、という�狼少年�の実例は有名だが、この実験はその逆を試してみたら、という発想である。  一九二〇年にインドで発見された二人の狼少女は、全く獣そのままに育っており、四つ足で歩き、皿の食物に直接口でかぶりつき、しかも夜中には三度、きまって遠吠《とおぼ》えまでしたという。  つまり行動様式から鳴き声まで、この少女は狼になりきっていたわけである。  では、チンパンジーも人間と同じように育ててやれば、やはり人間に近い成長を示すのではないか。  これが先に挙げた一九三〇年のケロッグ博士の実験であり、その後も同様な試みは幾度か行なわれた。  その結果分ったことは、確かに満三歳ぐらいまで、チンパンジーは人間と何ら変わらない知能の発達を示す、という事実だった。しかも、当然のことながら、運動能力では人間の子供を大きく上まわった。  つまり、チンパンジーの知能の高さは充分に証明されたわけだが、ひとつだけ、チンパンジーが人間の子供に全く及ばない能力があった。  それが、言葉だった。  普通、幼児も三歳になれば、かなり複雑な会話をこなせるようになるものだ。しかし、それらチンパンジーは、どう教えこんでみても、ママ、パパ、カップなどの単純な数語以外、理解はできても話そうとしなかったのである。  もともと、これら大型猿類の声帯は人間と根本的に構造が違う。つまり、チンパンジーはどう訓練してみても、人間のように�話す�ことは不可能だったのである。  ここで、チンパンジーと人間が会話を交す、という可能性は、僕とミリイの場合と同じく消え去ってしまったかに見えた。  それに突破口を開いたのが、ネヴァダ大学の研究者ガードナー夫妻だった。  猿類とのコミュニケーションを計るにあたって、音声が全く頼りにならないことを知っていたガードナー夫妻は、チンパンジーが非常に巧みに身ぶり手ぶりで感情を表現する能力に注目した。  いわゆる、�猿真似《さるまね》�の能力である。  音声ではなく、この手や指をコミュニケーションの手段に使えるのではないか?——そう、ガードナー夫妻は考えたのである。  手や指を使う言語、即ち、言葉の不自由な人々のために考えられた�手話�が、この研究のために応用された。  そして、手話による言語学習を授けられた第一号のチンパンジーの名が、ワッショーだったのである。  この研究は、とにかく大成功だった。ワッショーは、たちまち百近い単語を完全に覚え、そればかりか個々の単語を組み立てて構文をつくる所まで進歩した。  そればかりか、相手の人間が手話に不慣れだと見てとると、わざと相手に分りやすくゆっくりと手や指を動かしたり、新しい単語をその人間に教えようとする心配りまで見せるようになったという。  つまり、人類はここで初めて、人間以外の生物と共通の言語で会話する手段を発見したことになる。 (素晴らしい……素晴らしい……)  僕はむやみに興奮していた。僕が半ばファンタスティックな試みとして考えていたミリイとのコミュニケーション計画を、対象が猫とチンパンジーという違いはあるにせよ、すでに成功させている人々がいたのである。 (これだ! これこそ僕の求めていた発想法だ!)  僕はミリイに夕食を用意するのを忘れて、それらの文献を読み進んでいった。  チンパンジーと�会話�しようという実験は、この手話によるものだけではなかった。  同じ時期、カリフォルニア大学では図形によってチンパンジーに言語を教える研究も進められ、これも大きな成果を上げているらしい。  ワッショーが手話なら、こちらは筆談というわけだ。  音声というハンディキャップが、さまざまな方法で乗り越えられ、現実に猿と人間の対話が、日々深まっている、という報告は僕を力づけた。 (ようし……僕だって、何とかミリイとのコミュニケーションの手段を見つけてやるぞ)  僕は本を閉じ、足元のミリイを見下ろした。 「おい、ミリイ! おまえは一体、どこで喋ってくれるんだい?」僕はミリイに呼びかけた。  食事の用意をしてくれないばかりか、全く遊んでもくれない僕に、ミリイはひどく腹を立てている様子だった。  ミリイは目を上げようともせず、精一杯の怒りで尻尾《しつぽ》を左右に打ち振っている。耳はペタリと頭に伏せたままだ。 「分ったよ、分った。そんなに怒るなよ。今すぐ、食事をつくってやるから」  そう言いながらミリイを抱き上げようと手をのばした僕は、ふと、彼女の不機嫌そのものの尻尾の動きに目を吸いよせられた。 (こ、これだ! 尻尾だ!)  チンパンジーには器用に動く手と指があったから�手話�が可能となったのだ。しかし、猫に同じ方法は考えられない。となれば……。  …………  …………  猫という動物は、もともと非常に表情豊かな一族とされている。  ドイツの比較行動学者パウル・ライハウゼンは、猫の表情の解析図を作った人物だが、この猫の表情というのは、顔ばかりでなく全身で表現される。 「なんだ、そんな表情なら、どんな動物にだってあるじゃないか」と考える向きもあるだろうが、これまでの研究によれば、いわゆる人間に近い感情表現としての�表情�は、高等猿類、それに猫と犬の一部にしか認められていないらしい。  つまり、何らかの表現手段、しかも人間にも理解し得る表情を持つものは、猿、猫、犬だけなのであり、とりあえずコミュニケーションを容易にとり得る相手というのも、この三族以外にはない、ということになる。  しかも、そのうち、猿との�会話�はすでに実現しているのだ。  僕は�猫�に目をつけた自分の予感の正しさを再び確信した。  僕はふと思い出して、以前に読んだパトリシア・モイーズ女史の『猫と話しませんか?』をまた書棚からひっぱり出した。  猫の表現部位として�尻尾�を選択することが果たして正しいかどうか、彼女の見解を確かめたい、と思ったからだ。  果たして、女史は≪ボディー・ランゲージ≫という章で、そのことに触れていた。 〈……(ネコの)通常の意志の伝達は、すべてボディー・ランゲージによってなされます……〉ふむふむ〈まったく無教育な路地裏のどらネコでも、きわめて感受性に富んだ、洗練された語彙《ごい》を持っていて、それを主として尾や耳の微妙な使い方によって伝達します……〉 (や、やっぱりだ!)僕はさらにその章の中の≪耳と尾≫という項に注目した。 〈……耳と尾は、ふつう連動して、非常に広範囲な感情を表現します。伝説によると、名女優サラ・ベルナールは、ある外科医に、ヒョウの尻尾を自分の背中に移植してもらえないかと頼んだそうです。尻尾がないと、感情を十二分に表現できないような気がしたからだといいます……云々《うんぬん》〉  これで僕の計画は、完全にひとつの方向性を得たことになる。 (なるほど、なるほど……尻尾と耳か……)僕はひそかに笑みも洩《も》らし、ミリイを見下ろした。  またしても無視されたこのかわいそうな猫は、すっかりふてくされて眠りこんでしまっている。 「ごめん、ごめん」苦笑いして、慌てて食事を用意しながらも、僕はどうやって尻尾と耳を使って猫コトバの学習をはじめるか、そればかりを考えていた。  しかし、ここにもうひとつ問題があった。  猫が、こうした視覚による学習をうまく受け入れるだけの能力を持っているかどうか、という点である。  だが、この僕の疑問はすぐに解決された。  ネコの学習能力に触れて、今泉博士という動物学者が、 「見ることによってだけで、問題の性質を理解し、つぎに実際に自分でそれを解いてしまう、という能力は、きわめて高度な内容のものなのである。一〇〇万種を越える動物の中で、これを行なえるのがはっきりしているのは、サル類とネコ、それにごく少数の高等哺乳類だけだと言われている」と述べている文章を発見できたからである。  今泉博士は、毎日人間によって開閉されるドアを見ている猫が、ある日突然ドアのノブにとびつき、それを自分で開けてしまう、といった実例を挙げ、猫の学習能力の高さを証明している。 (これなら、大丈夫)と僕は思った。なにしろウチのミリイは、蛍光燈まで自分で点けたり消したりしてしまうくらいだ。まず、普通のネコ並みの学習能力はあると見ていい。 (ようし、面白いことになってきたぞ!)  僕はその夜、ひとり実験の経過レポートをメモしながら祝杯を上げた。  …………  …………  そして、まず僕が作ったのは、こんな小道具だった。  なにしろ、猫と人間は形態的にもサイズからいっても、かなり差のある生物だ。  チンパンジーと人間が手話で話し合うのと違って、僕が使いたいのは猫の耳と尻尾だから、それなりの工夫が必要だったのである。  動かそうと思えば、僕は自分の耳を動かすことができる。だが、人間の耳では、それこそ余りにも表情がない。そこで僕が作ったのは、手の指に差し込む猫の耳型キャップだった。材料は白とピンクのフェルトだ。  そして、もうひとつは尻尾。これは真ん中に針金を通し、ちょうどぬいぐるみの要領で、周囲には白い毛糸を植えつけた。  ミリイはペルシャ猫なので、尻尾はまるでタヌキ並みに立派なのだ。  指の動きで操作する二枚の耳、そして針金で自在に形を変えることのできる尻尾、この三つが、僕の考案した猫コトバ発生器なのである。  そして苦難の日々が始まった。  なによりも、ミリイに僕の意図を理解させるのに骨が折れた。  人さし指と小指に猫耳型キャップをかぶせ、その後に猫尻尾型ぬいぐるみを持った僕が、しずしずとミリイに近付くと、彼女は最初それが新しいオモチャだと思ってじゃれつき、次には気味悪がって逃げまどった。  そんなトンチンカンなやりとりが数か月続くうち、ミリイはある日突然、こちらの意図を理解した。  僕が尻尾を真ん中から右に折り、両耳を伏せた状態でミリイに近付いた時、彼女は正確に自分の耳と尾でそれを真似て見せたのである。  ミリイはその日ついに、僕の持つ奇妙なシンボルが、自分の耳と尾に対応するものだということを理解してくれたのだ。  まず、最初の難関はこうして乗り越えられた。  しかし、まだ問題は山積していた。  次なる重要課題は、いかにして、この耳と尻尾の組み合わせによる新しい言語体系を創造するか、ということだった。  チンパンジーに手話を教える場合は、すでに完成されてあったアメリカン・サイン・ランゲージ、すなわちアスメランと呼ばれる記号言語をそのまま使えばよかった。  しかし、耳と尻尾の動きからなる言語体系は、少なくとも人間によっては未だ開発されておらず、僕とミリイは、この全く未知の作業に取り組まなくてはならなかったのだ。  だが、ここまで来て引き返すわけには行かなかった。  僕はまず、尻尾の曲げ具合、そして耳の動かし具合を組み合わせて、いくつかの基本的な単語をミリイとの間で取り決めていった。  例えば、  ミルク=両耳をピンと立て、これもピンと立てた尻尾を左右に細かく振る。  メシ=尻尾を後方四十五度ほどに倒し、左右に細かく振る。  遊び道具(銀玉など)=両耳を一度前に伏せ、一瞬|間《ま》を置いてから上げ下げする。  遊び道具(ヒモ類)=右の動作に加え、立てた尻尾を大きく左右に振る。  さらに、  私(自分)=尻尾を前傾させ、耳を左右に開く。  あなた(相手)=尻尾を前傾させ、耳を中央に寄せる。  はい(YES)=地面にたらした尻尾を右から左へゆっくりとひと振りする。  いいえ(NO)=耳をぴたりと後に伏せ、地面にたらした尻尾を小刻みに振る。  などという合図も、次第に僕とミリイの間で定着していった。  これらの言語体系を創《つく》るにあたって、僕はなるべく猫本来の動作、反応をとり入れるように努めたので、ミリイの語彙の増加は思った以上に早かった。  チンパンジーのワッショーは、訓練開始から三十四個のサインを習得するまで二年弱を要したが、ミリイはほぼ同数のサインを五か月で覚えたのだから、考えてみれば驚異的な学習効率の高さと言えた。  単語の数がある程度まで達すると、僕は今度は二つ以上の言葉を組み合わせて、構文を作らせる訓練に移行した。  即ち、「ミルクが、欲しい」=両耳をピンと立て、これもピンと立てた尻尾を左右に細かく振り、ついで、尻尾を後方にたらし、大きく左右に振る。  あるいは、「この遊び道具(銀玉)には、あきた」=両耳を一度伏せ、それから上げ下げし、ついで耳を後ろに伏せて、地面にたらした尻尾を小刻みに振る。エトセトラ、エトセトラ。  こうしたやりとりを続けるうち、ミリイは自分なりにこの言語を工夫し、省略できる部分は省略し、より精密化したい言葉は複雑に分化させようとするような努力を見せ始めた。  それは、まさに目を見張る日々だったが、そうした高度に知性的な彼女の態度は、年が変わり、二度目の発情期の訪れとともに、あっさり影をひそめてしまった。  もちろん、食事を要求する時など、彼女はこの習い覚えたサインを使いはするのだが、それもイヤイヤ、面倒くさそうにするようになり、そわそわと落ち着きのない季節にすっかり気を奪われているようだった。  僕は、このミリイの変貌《へんぼう》に少なからず落胆した。 (だが、仕方がない……彼女も年頃なんだから)と娘を嫁に出す父親のような気分で思い直し、同じペルシャ猫を飼っている友人たちに声をかけ、彼女のお婿さん探しをはじめたのである。  …………  …………  運良くミリイと年回りの近いペルシャ猫の雄が見つかり、お見合い、ハネムーンとつつがなく進んだ。ミリイは二か月間の妊娠期間を経て、四匹の子猫を無事に生み落とした。  さて、生後三週間余りが過ぎ、そろそろ子猫たちが巣を離れて遊びはじめる頃になって、僕は信じがたい光景を目撃して狂喜した。  なんと、ミリイが、子猫たちに、両耳と尻尾を使う言語を伝授しようとしていたのである。 (やった! すごいぞ!)  僕は物陰に身を隠したまま、必死で叫び出しそうになる自分を抑え、その光景にいつまでも見入った。  しかし、これは予想してもいい事態だった。  実際、手話を覚えたチンパンジーが、その連れあいに自ら手話を教え、さらに二匹の間にできた子供にもそれを伝えようとしている事実が、アメリカなどの研究所から数多く報告されていた。  そのことは僕も知っていた。それに、とかくこうして言語を学習した個体は、誰《だれ》か他の個体にそれを伝えたくなるものらしく、初めて手話を習得したチンパンジーであるワッショーも、得意気に犬や猫、小鳥にまで手話で話しかけては、相手がそれを理解しないと分ると、今度はなんとか教えこもうと、迷惑して逃げまわる生き物を追い回したと言われている。  そんな実例がいくらでもあるのだから、ミリイが自分の子供たちに習い覚えた�言語�を伝授しようとしても、何の不思議もないはずだった。  しかし、僕にとっては、やはりそれは感動的な光景だった。  自分が考え出し、ミリイといっしょに完成しようとした猫=人間コトバが、こうやって次の世代にまで伝わってゆく……考えただけでも、胸が高鳴った。  猫と人間の会話のために創られた言語体系が、さらに猫と猫のコミュニケーション・システムにまで拡がってゆくのだ。  僕は幸せだった。MANとCATのための言語体系……それを僕はMATランゲージと名付けるつもりでいたが、こうなれば堂々と�猫語�を名乗ってもおかしくはない。  僕の空想、夢想はまた拡がっていった。  さらに数か月が過ぎた。  ミリイの四匹の子猫たちは、一匹、また一匹と希望者に引きとられてゆき、出産騒ぎ以来にぎやかだった我が家も、ようやく落ち着きがよみがえってきた。  僕は、MATをさらに完成させるため、再び独りものとなったミリイを相手に、その訓練を再開していた。 「ミリイ、今日は何が食べたい?」  左手で二つの猫耳キャップ、右手で毛糸の猫型尻尾を操りながら、僕はミリイに訊く。 「プリン。ミリイ(私)、プリン、大好き」  大好き、を強調して、ミリイは大げさに尻尾を左右に打ち振る。 「分ったよ、ミリイ。デザートはプリンだね?」 「そう」  ミリイは地面にたらした立派なその尻尾をゆっくりとひと振りした。そして、ちょっと考え込むように首をかしげてから、またMATによる会話をはじめる。 「ミリイ(私)の子供たち、どうしているか? 知ってるか?」 「ん? ああ、知ってる。みんな元気だ」  僕は思わず声に出して答えながら、慌てて手に持っている小道具で、それをMATに翻訳した。 「会ってみる、いいか?」  ミリイがひどく懐かしいものを見る目つきでそう言った。両方の耳が、問いかけの形に二度、三度と振られる。 「いいだろう。今度、ミリイを連れて、遊びにいこう」と、僕。  ミリイは、人間がうなずくのに相当する仕草を尻尾で幾度も繰り返した。  ミリイにそう言われて、僕は、ミリイの子猫の一匹をもらってくれた木下という友人から、昨夜かかってきた電話を思い出していた。 「おい、お前の家からもらったあのペルシャ猫なあ……」 「うん、どうかしたか?」 「いや、とても元気にはしてるんだけどさァ、何て言うか、あの猫、かなり変わってるなあ」 「へえ、そうかい?」 「ああ、実は女房が昨日台所でね、何かゴソゴソ妙な音がするってんで見に行ったんだ。そしたら、あの猫がね、女房が言うには、ネズミと立ち話をしてたってんだよ、ワハハハハハ」 「ええっ?! ネズミと立ち話?」 「そうなんだ、おかしいだろう。ハッハッハ。なにしろ、あの通りの女房だから、すぐそんな言い方をするんだけどもね、とにかくネズミと鼻つきあわせて、さかんに耳や尻尾をぴくぴく、ぱたぱたやってたらしい」 「…………」 「この頃の猫はネズミを捕らないっていうけど、立ち話をされちゃあ、困っちゃうよなあ。そうだろう? なあ」  木下はまたゲラゲラとひとしきり猫のおかしな点を数えあげ、そのうちまた飲みに来いよ、と言って電話を切ったのだった。  僕は複雑な気分にさせられた。  それはきっと、子猫がミリイから伝授されたMAT言語を、ネズミに対して試している光景に違いない、と見当はついたけれども、それを口にするのはやめにした。  僕はこのMAT言語の実験について、すでに親しい数人の友人や、日本哺乳動物学会の知り合いなどには報告していたが、ミリイがもう少し自由に、せめてチンパンジーのワッショーの半分くらいまで、喋れるようになるまで一般には公開しないつもりでいた。  それでなくとも、空想的な小説の分野で仕事をしている僕のような人間は、こういうことに慎重でなくてはならなかったのだ。  だから、木下もその子猫が普通の子猫とどこがどう変わっているのか、本当には知らなかったのである。 (いつかこのことが公《おおやけ》になる日が来たら、木下たち、子猫をもらっていった奴らはビックリするだろうなあ……)  僕はミリイの頭をなぜながら、その情景を想像してひとり笑みをもらすのだった。  …………  …………  ところが、その秋|流行《はや》った風邪のために、ミリイは呆気《あつけ》なくこの世を去ってしまった。  泣くに泣けない、とはこんな時のためにある言葉に違いない。  僕は一週間、ただ茫然《ぼうぜん》として過ごした。MAT言語の唯一の生きた証明が、余りにも簡単に、しかも永遠に喪《うしな》われてしまったくやしさも勿論《もちろん》だが、それ以上に、とりあえず最も身近な最愛の生き物を喪った悲しみの方がより大きかった。  いなくなってみて、僕は、人間の誰よりもミリイのことを好きだったのだと、はっきり思い知らされていた。 (だから、だからこそ、僕はミリイと何とかして会話を交したかったんだ……同じ言葉で、お喋りがしたかったんだ……)  狭い僕の住まいが、にもかかわらず、ガランと空虚に感じられた。  僕は今にもミリイが帰って来るような女々《めめ》しい錯覚にとらわれて、何気なく部屋の窓を左右に開けた。  そして、街路をぼんやりと見下ろした。 (あっ!!)  僕の心臓が跳ね上がった。 (ミ、ミリイ!)  窓の向かい側の電信柱の陰から、ミリイそっくりの白いペルシャ猫がふらりと姿を現わしたのを見て、僕は思わず叫び声を上げそうになった。  そしてそのまま窓から飛び出しそうになり、かろうじて理性で踏みとどまった。 (い、いや、そんなはずはない。あれはミリイじゃない。ミリイは確かに死んだんだ、あれは別な家の猫なんだ)  息を整えながら、その猫をもう一度見直す。すると、やはりミリイではないことが僕の混乱した頭脳にも分ってきた。  その猫はミリイよりもひと回り小さい。それに純白に近かったミリイと違って、背中に淡いグレーのシマが入っているようだ。  だが、しばらくする内に、近くの垣根の下から、また一匹、同じようなペルシャ猫が現われたではないか。 (あっ! ひょっとすると……)僕は突然気がついた。(あいつら、ミリイの子供たちじゃないだろうか……)  母親の死を何らかの第六感で探りあて、生家へもどってくる猫の子供たち……まるで戦前の修身の物語にでもありそうな場面だが、さらに見るうちに、そればかりではないことが分ってきた。  さらに数を増す猫たちの中には明らかにミリイとの血縁はない三毛《みけ》猫や黒猫も混じっていたからだ。  だがともかくも、そうして窓外に集まってきた猫たちは、互いに耳や尻尾を打ち振り、何事かやりとりをはじめている。それは、まぎれもなくMATランゲージによる会話を思わせた。 (……とすると、ミリイが死んでも、MATだけは次代へ、そしてその仲間たちへと引き継がれていたということか……)  僕は、首を左右に振った。  信じがたい光景は、なおも続いている。今や、猫ばかりでなく、大型のコリー犬に引きつれられた数頭の犬たちまで、その街頭集会に加わってきたのである。  何が何だか分らず、僕は窓の後ろに隠れるようにしてその場面を見守り続けた。  その犬、猫たちは、しばしば振り向いては、僕の、つまりミリイのものだった住居を悲し気に見上げている。  彼らの様子、そして集会の中心がどうやらミリイの子猫たちであるらしいことから、その目的がミリイの追悼にあることは察しられた。  彼らは今も盛んに、耳や尻尾をいそがしく動かして、何事かお喋りを続けている。  僕は何とかして、その意味を読みとろうとするのだが、彼らの使っている言語は、僕とミリイが創り上げたMAT言語から相当に変型しているらしく、一部の単語がようやく推定できる程度にしか分らない。  すでに何代、何十匹もの実用を経て、今、MATはより現実的な言語へと激しく変貌《へんぼう》している最中なのであろう。 (それでもいい……とにかく、僕とミリイは、この町内の動物たちに、言語という財産を残したんだから……)  ミリイを喪った悲しみに、常識的な日常感覚を一時|麻痺《まひ》させられていた僕は、そんな半ば妄想に近い感慨を本気で抱きながら、この何とも異常極まりない光景を、ただじっと飽かずに眺めていたのだった。  …………  …………  都市の動物たちの間に、何か言語に似たコミュニケーションの手段がはびこりはじめているらしい、と一部の住民やマスコミが騒ぎ出したのは、それから四か月ほど経ってからだった。  毎日きまった時間に、近所の猫が集まって井戸端会議をしている、だの、犬とネズミが何事か立ち話をしており、それをやめさせようとした飼い主が犬にかみつかれた、などという落語のような事件がひとしきり報道され、初めは全く信じようとしなかった人々も、何か普通ではないおかしな事態が、この都市で起こりはじめているらしい、という予感だけはひしひしと感じるようになっていた。  最後まで異常を認めようとしなかった学者連中も、余りに数多く報告される奇妙な事例を無視しかねて、ついに調査を開始したらしかった。  しかしその時になっても、一体何が起こりつつあるのか、正確に言いあてられる人間はひとりもいなかった。  こうした事態の恐らくは引金を引いたにちがいないこの僕にしたところで、この無気味な動物たちの動向を理解することはできなかったのだ。  僕は不安を感じ、MATの実験に関する全てのメモ、レポート、記録を焼きすてた。  そんなことで心のざわめきが消えるわけでもなかったけれど、しかしともかく僕は、今のところ事件の外側にいたかったのだ。それでなくともミリイを喪ったことが、未だに僕の心に傷口を開いていた。これ以上の面倒はごめんだった。  そして、僕は、事態を全く傍観者的に眺めている大多数の人々と同じく、この都市の動物たちの不穏な動きが遠からず収まってしまうと信じていた。  自分で創り出したMAT言語の魔力に、僕は全く気付いていなかったのである。  そして、ある日のことである。  僕は憂鬱《ゆううつ》をまぎらわそうと、久しぶりの散歩に出た。  静かな住宅街を選んで、ゆっくりと歩くうちに、僕はふと、道端にB4大の紙切れが落ちているのを見つけた。  あたりは手入れの行き届いた閑静な家並である。雰囲気に似合わぬこの紙クズをひろって、どこかへ棄《す》ててやろう、と僕はめずらしく公徳心を発揮して、その紙片に手をのばした。  それは案の定、新聞の折り込みチラシらしかった。  手の中で丸めて、ポケットに突っ込もうとした僕は、そのザラ紙のチラシの裏側に、何かがびっしり書き込まれているのを発見して手をとめた。  立ちどまり、僕はその紙切れを今度は慎重に拡げてみた。  確かに、何かが、ぎっしりと書き込まれていた。しかし、それは、どう見ても日本語ではなかった。 (古代の象形文字かしらん?……それとも、ただのイタズラ書きかな?)  僕はしばらくそれに見入った。そして突然、その正体に気付いた。 (こ、これはMATじゃないか! いったい、誰が……いや、これは僕の作ったMATじゃない! もっと複雑なMATだ!)  その紙片の書き出しはこうだった。   ・ ・   ・ ・  僕は尻尾と耳の組み合わせから発展したと思えるその象形文字の連なりをじっと見つめた。  それはMATの原型からは著しく変化していたが、にもかかわらず創始者である僕にはぼんやりとその意味が分った。  そこには明瞭《めいりよう》に文法らしいものが見てとれた。しかし、それは人間の文法からは遠く隔たった構造を持っているらしかった。僕はその文章の背後から、いかにも猫らしい猫だったミリイの顔が浮かび上がってくるような気がして、一瞬|微笑《ほほえ》ましい思いにひたった。  しかし、次の瞬間、僕の頬《ほお》はひきつった。  猫や犬たち、この街の動物が、すでに文字言語まで獲得しはじめている、という驚異以上に、その文書のおぼろ気に分る内容が僕の全身を冷汗まみれにしてしまったのである。僕は両手がぶるぶる震えはじめるのもかまわず、その文書を読み続けた。  それは、次の様な結語とサインで終っていた。   ・ ・   ・ ・  僕はそのサインの主が、ミリイの子供たちのひとりであることを疑わなかった。  彼らは怒っていた。彼らにとって、ますます住みづらくなるこの街の環境を呪《のろ》っていた。  そして彼らは今や、この街を、人間の街から、動物たちの街につくり変えようと決定していたのである。  ぬいぐるみ  はじめてその女の子を見かけたのは、天気の良い日曜の朝のことだ。  僕はパジャマのままダイニングに腰を落ち着け、自分でいれた紅茶をすすり、煙草をふかしながら新聞を見るともなしにめくっていた。  で、ふと目をあげると、窓の外の塀の上に、ひとりの女の子が座っていたのである。  女の子は、胸あてのある赤いデニムのズボンをはいていた。そのだぶだぶのすそから、小さな白いスニーカーがのぞいている。 (ん……見たことのない女の子……)と思った次の瞬間、少女はひょいと身をひるがえし、塀の向こうに消えていた。  翌日は月曜、その次の日は火曜……出勤しては帰宅し、また出勤するという単調な毎日を、僕は繰り返していた。  ところが木曜日の午後、僕はオフィスで、急に激しい腹痛に襲われた。慌てて診療所に駆けつけると、軽い食中毒らしいと言う。  家へ帰って何も食べず、半日くらい寝ていた方がいい、という医者のすすめで、僕はその旨を上司にことわり、早退することにした。  平日のこんな時間に帰宅するのは、社会人になって三年目、はじめてのことである。  僕は冷汗が出るような腹痛にもかかわらず、妙な解放感を覚えながら、空いた電車で家へと引き返した。  改札を出ても、あたりはまだまだ明るい。  そこは見慣れたいつもの街のはずなのに、毎日疲れ果てた通勤客とともに吐き出されて目にする夕刻とは、まるで雰囲気が違って感じられる。見知らぬ土地へひとり放り出されたような、そんな非現実感に、僕は思わず何度もまばたきを繰り返したものだ。  だが、それを楽しんでいられる場合ではない。現実の差し込むような腹痛に追いたてられて、僕は商店街を抜け、家へと続く狭い坂道を急ぎ足で上りはじめた。  と、そこにまた、あの女の子が立っていたのだ。  少女は、まだともるまで大分間のある街燈の電柱に背をもたせかけ、例のだぶだぶの赤いズボンのポケットに両手をつっこんだなり、つまらなそうに、ぽつんと立っていた。 (こないだの女の子……)僕はすぐに、塀の上の彼女を思い出した。  そして、目が合った。  女の子は僕の顔をまじまじと見つめている。そして、笑うでもなく、ほっぺたをぽこんとふくらませてみせた。 「やあ……」少女の視線を受けとめてしまった僕は、それを無視するわけにもいかず、曖昧《あいまい》なあいさつをつぶやいた。そして行き過ぎようとする。 「ねえ、おにいちゃん、遊ぼうよ」  いきなり呼びかけられて、僕はうろたえた。歩調が急にちぐはぐになってしまう。仕方なく立ちどまって、その女の子を振り返った。 「ねっ? いいでしょ、いっしょに遊ばない?」  思いがけぬほどはっきりした声だ。 「あ、遊ぶって……でも、なにをして?」  僕はどぎまぎしながらもきき返した。 「そうねえ……たとえば……」女の子は、大きな瞳《ひとみ》をくるりと動かして首をかしげた。「ふたりで公園へ行って、そこでアイスクリームを食べるの。いちばん大きな、三色のやつを、よ」 「ああ、なるほど……」僕は弱々しく微笑しながら、うなずいた。「でもね、ざんねんだけど、今はダメなんだ。なぜって、おにいちゃん、おなかをこわしちゃって、これからすぐ家へ帰って寝てなくちゃならないんだ。分るだろう? そう、お医者さんから言われたところなんだ」  そう説明する。 「なーんだ、つまんないの……」  女の子は本当にがっかりしたという表情で、うつむいてしまう。  僕はなにか、とても悪いことをしてしまったような気がして、慌ててつけ加えた。 「で、でも、アイスクリームが食べたいんなら、おこづかいをあげるから、ひとりで食べに行きなさい。ねっ? それなら、いいだろ?」  僕は小銭をひっぱり出そうとポケットに手を入れる。 「やよ、そんなの……あたし、アイスクリームが食べたいんじゃなくて、おにいちゃんと遊びたいんだもの」  女の子はすねたように、スニーカーで地面を蹴《け》る。 「ごめんよ、でも、ほんとに今日はダメなんだ」僕はついおろおろ声になってしまい、逃げ道を探そうとするかのように、あたりを見回した。その時、また激しい痛みがぶり返してきた。 「そ、そうだ、こんどの日曜、それならいいだろう? ね、日曜なら病気も治ってるし、おにいちゃん、一日中、遊んであげられる」  せっぱつまって、僕はそう口走る。 「ほんと!?」女の子の瞳が、ぱっと明るくなった。 「ああ、ほんとだ」 「やくそくよ」言うが早いか、急に女の子は駆け出した。  僕のそばを風のように走り抜け、横丁をくるりと回って、路地に姿を消す。  僕は大きなため息をつき、おなかをおさえて、よろめくように自宅に帰りついたのだった。  幸い、腹痛は一晩でけろりと引いた。  同時に、女の子との約束などすっかり忘れ、僕は翌日から、また忙しく働いた。  そして日曜の朝——  僕は、寝室のガラス窓をコツコツ叩《たた》く物音で目を覚ました。  驚いてとび起きると、窓の外に小さなこぶしが見える。 「だ、誰《だれ》!?」言ってから、突然�約束�を思い出した。しかし、(まさか……)と思いつつ、窓を開けた。あの午後のことは、まるで夢の中のことのようにしか覚えていなかったからである。  気持ちのいい風が、まず吹き込んできた。そしてそれを追うように、窓わくへとびのってきたのは、やはり、あの赤いデニムの、だぶだぶズボンをはいた女の子なのである。 「やくそくよ、やくそくの日曜日よ。さあ、遊びにいきましょう」  窓わくにちょこんと腰をのせた女の子は、僕を大きな目で見つめて、そう宣言した。  僕は苦笑しながらも、首をふりふり、着替えをはじめる。 「わかってるとも、約束だ。いいだろう。どこへでも、連れてってあげよう。公園、それに、三色アイスクリーム、かな?」  僕は寝室に置いてあったテニス・シューズをはき、窓わくに足をかけた。そしてそのまま、少女といっしょに、庭へとびおりた。  玄関からきちんと出入りするのは、どうも、そぐわないような気がしたからだ。  そんな僕の行動をほめたたえるように、少女は両手をパチパチ鳴らし、大きな笑い声をあげた。 「そうよ! 公園、三色アイスクリーム……それに、風船! 赤い風船! あたしのからだが、お空に浮いてしまうくらい、たくさん、たくさん、風船がいるわ!」  少女は僕の手をつかんではしゃぎ回る。 「さあ、早く! もっと、早く! 早くしないと、遊んでる時間がなくなっちゃう! 遊んでると、時間なんて、あっというまになくなっちゃうのよ、おにいちゃん、そのこと知ってる?」  女の子につられて、僕の心も否応なく浮き立ってきた。  だが、どこか奇妙なくすぐったさが残っている。  僕はそれを振り切るように、少女の手に引かれるまま、大またで駆け出していた。  そして一日は、少女が予言したとおり、あっけなく過ぎた。 「風船、なかったね……」  夕暮れが近付く道をもどりながら、少女はぽつりと僕に言った。 「ああ……」その日、僕らは、どうしても風船売りを見つけることができなかったのである。 「赤い風船……お空に浮かべるくらいたくさん、風船がいるんだけどなあ……」少女がまたつぶやいた。  見下ろすと、その大きな目が悲しそうに僕を見上げている。それをのぞきこんで、僕はなんとなく切ない気分にさせられた。 「いいさ、また来週、日曜日に、こんどは、もっと大きな公園で探してみよう……」  僕はまた、つい、そんな約束を口にした。  少女の顔が、いっぺんに輝いた。僕は結局、その笑顔が見たかったのだ。  と、少女は、ぱっと僕の手を離した。そして、ひとりで走り出した。 「や、く、そ、く、よ!」叫んだ女の子の姿は、もうどこかの路地に消えていた。  次の週の日曜は、雨だった。  コツコツ……窓ガラスの音で目覚めると、外に水玉模様の傘の先だけが見える。 (そんな……)ちょっといらだたしく思うが、ともかくも、僕は窓を開け、少女を抱き上げた。  こんな天気じゃあ、と言おうとするより早く、少女は喋《しやべ》り出した。 「ぜったい、きょうは風船が見つかるわ。わかるの、そんな気がする! さあ、急いで! 急がなくちゃ、雨が上がっちゃう」  雨傘を振り回して叫ぶ。  僕は約束の延期を言いだしかね、仕方なしに、外出の仕度を整えて、雨の公園へ出かけなくてはならなかった。 「ねえ、あのお花の名前知ってる?」  人影もまばらな公園の中を歩きながら、ふいに女の子が僕に質問した。 「えっ? あれ……ううん、知らない」 「じゃあ、あの木は?」 「ツツジかな、カエデかな……いや、ほんとは分らない。僕は、植物のことはよく知らないんだ」  少女に傘を差しかけたまま、僕は照れ笑いを洩《も》らす。 「ん、まあ! じゃあ、おにいちゃんは、いったい、なにを知ってるの?」  女の子は、ちょっと怒ったような口調でそう言い、僕を見上げる。 「なにって、それは……」僕は口ごもる。 「そうよ! おにいちゃん、ほんとは、なあんにも知らないんだわ」少女は不平そうに鼻の頭にしわを寄せ、そして急に僕の手を引いて走り出そうとする。 「あそこ、あそこよ! アイスクリーム屋さんがあるわ」  まるで手におえない小犬のように、少女は僕の手を振り回す。  僕はぬかるみを気にしながら、精一杯の早足でそのスナック・スタンドへ近付いた。そしてポケットの小銭を探る。  店番の女は、じろりと僕をにらみつけ、無言で二本のスティック・シャーベットを差し出した。 「あの……三色の、三色のアイスクリームはありませんか」僕はきく。 「ばかね、いいのよ、これで!」言ったのは女の子だ。「雨の日は三色じゃないのよ、そんなことも知らないの! もう、ほんとに……」  少女はあきれたように僕を見上げ、黄色いスティック・シャーベットを僕の手からもぎとるようにすると、赤い舌をちろりとそれにのばした。 「ああ、そうか……うん、いいんだね」  わけが分らず、僕は代金を払う。  売店の女は、馬鹿にしたように鼻を鳴らし、ぷいと横を向いてしまった。 「ううっ、つめたい」女の子は大げさに口元をすぼめ、「さあ、あとは、風船屋さんよ」と歩き出そうとする。  だが、この雨の公園で、どこに風船売りがいるというのだろう。  結局、その日、僕は少女にそれを買ってやることができなかった。  二人は雨の中を帰途につく。  女の子は不機嫌だった。 「だめだわ、こんなことをしてちゃあ、いつまでたっても、だめよ……」  女の子は猫の唸《うな》るような声で、そうつぶやいた。 「だめって?」 「あした! あしたじゃなくちゃ、だめなんだわ!」少女は言う。 「それは、まずいよ」僕は肩をすぼめて言い返した。「明日は月曜、僕は会社へ行かなくちゃならない」 「いいわよ、行かなくても」 「そうはいかない。僕はきみと違って、遊んでばかりいるわけにはいかないんだ」  僕は、ちょっときつい声で言う。 「どうして? どうして、遊んでばかりいちゃいけないの?」女の子は、大きな目をさらにまん丸にした。 「それは……そうさ」  言いながら、僕は時計を見た。 「あっ! それ、時計ね? いま、なんじ?」少女がきく。 「ん? 四時ちょっと過ぎ」 「ふーん……ねえ、その時計、あたしにちょうだい」突然、そう言う。 「えっ!? まあ、いいけど……うん、よし、これは、きみにプレゼントしよう」  僕は、少女の気持ちをなんとかなだめたい一心で腕から時計をはずし、差し出した。  と、それを受け取った女の子は笑い出す。そして、時計を道端の水たまりにぼちゃんと投げすてた。 「時計なんて、あたしにはいらないのよ。どうして、そんなこともわかんないの? だって、あたしは毎日、好きなだけ遊んでいればいいんですもの。時間なんて、かってに過ぎてくだけなんだから、あたしには、かんけいないのよ。そんなこと、わからない? ほら、これで、おにいちゃんの時計もなくなっちゃった。おにいちゃんも、好きなだけ遊べばいいんだわ。ね? だから、あしたは、風船をさがしにいきましょ、ね?」  僕は心の中で少なからず腹を立てながら、それでも少女にうなずかざるを得なかった。  そして翌日、少女は、まるで遠足にでも出かけるように、花柄の水筒を肩からぶら下げて、僕の家へやってきた。 「ヒュー! 今日は、ぜったいよ。あたし、きのう一晩考えて、ようやく風船のありかを考えついたの。さあ、早く、早く!」  僕は少なからず気が重かった。  しかし、ともかくも会社へ電話し、病欠の届けを出す。そして、女の子に手を引かれるまま家を出た。 「あれ! あのバスに乗るのよ!」  自動車道路に出ると、少女は突然やってきたバスを指さし、とめる間もなくそれに乗り込んでしまう。  僕も慌てて後を追った。 「ばかね、早くバス代を払ってちょうだい」  どぎまぎしている僕の太ももを少女がつねった。それは妙に物慣れた声だった。  バスは、あちこち遠回りをしながら、僕の会社があるビル街へ向かっているようだった。  少女は窓にしがみついて、さかんにわけのわからない幼児語を連発している。  乗客のほとんどは通勤途中のサラリーマンだ。  彼らは不思議そうに、あるいは軽蔑《けいべつ》したような目つきで、僕と女の子の奇妙なカップルを盗み見ている。  僕は恥ずかしさで顔を上げることができなくなった。  すると、そんな僕の背中に、女の子が手をのばしてきた。そして、(だいじょうぶよ)というように、手の平でなんかの合図を送ってくるのだった。 「さあ、おりるわよ」  少女が言ったそこは、ビル街の中心部だった。  僕と少女は、背広姿の乗客たちといっしょにバスから吐き出された。 「ねえ、ここはよそうよ。こんなところで、風船なんか売ってやしないよ」  僕は、自分の会社が近いことにおびえて、しきりに少女を引きもどそうとした。  だが女の子はそれに取りあおうとしない。 「どうして、そんなことがわかるの? なんにも知らないくせに!」  そう言うなり、僕の手を引っ張って、ずんずん先に歩き出す。  そうやって約半日、僕と女の子はビル街をさまよい歩いた。しかし、当然のことながら、風船売りは見つからない。 「ねえ、あたし、おなかペコペコ……」  ついに、女の子は、ある銀行の建物の前でしゃがみ込んでしまう。 「しょうがないなあ、じゃあ、どこかで食事にしよう」  ちょうどランチ・タイムで、あたりのビルからはぞろぞろとネクタイ姿のサラリーマンたちが吐き出されてくるところだ。  僕は頭の中で、できるだけ会社の人間に出会わない店を思い出そうとした。  が、女の子は、そんな僕の気持ちを悟ったかのように、急に大声を上げた。 「いや! ここで、なにか食べるのよ」  首を振ってだだをこねる。そして、銀行の入口の石段に座り込んでしまう。 「うーん、じゃあ、待ってなさい」  ともかく、こんな場所でやりあっていても仕方がない。僕は近くのビルへ入り、売店を探してハンバーガーと飲み物を買い込むと、そこへとって返した。 「ほら、食べるもの。でも、ここじゃまずいから、どこか芝生のあるところへでも行こうよ」  僕はハンバーガーをエサに、女の子を説得にかかった。 「いや! あたし、ここがいいの! どうして、ここでお昼を食べちゃいけないの!?」  言うなり、少女は僕の手から包みをもぎとり、勝手にそれを広げてしまう。 「わあ、おいしそう! さあ、早く食べましょう」  少女の顔が輝くのを見て、僕はもう気力が失せ、黙ってそのそばに腰を下ろした。 「なにを考えてるの? 冷たくなっちゃうじゃない」  少女は大きなハンバーガーの陰から、目だけをくりくりとのぞかせ、意味もなく笑った。そして、小さな指についたケチャップに舌を鳴らす。  僕はしかたなく、袋の中からハンバーガーをとり出し、それにかぶりついた。  僕らの前を、口元をひきしめ、眉《まゆ》をしかめた人々が、まるで浮浪者を見る目付きで通り過ぎてゆく。  僕は、自分が本来ならそちら側の人間であることを、ともすれば忘れそうになっているのに気付いた。 (明日だ……明日になれば、僕はまた、彼らの世界に帰ってゆくんだ。今日……そう、今日だけなんだ……)  僕は必死で自分にそう言いきかせた。  その時—— 「なんだ、君。今日は、病欠じゃなかったのかね?」  急に声をかけられて、僕は思わず口に運びかけたハンバーガーをとり落としてしまった。 「あっ、課長!」 「いったい、そこで何をしているんだね」 「そ、それが……実は……」  課長は、僕と女の子を何度も何度も見比べた。そして、うなずいた。 「まあ、一日くらい、妹さんの相手をしても、それは見逃すにしてもだ。いいかね、こんな場所で、弁当を広げるようなみっともない真似《まね》だけはよしてくれんか。御得意様にでも見られたら、どうするつもりだ。え? 君はまだ学生気分、いや、幼稚園の気分が抜けきっておらんのと違うか」  課長の目は、次第にけわしくなった。 「ねえ、おじさん!」急に声を出したのは女の子だ。  僕は思わず、びくりと震える。 「おじさん、このへんで、風船屋さんのいるところ、知らない?」  女の子は、ジュースのストローをくわえたまま、僕の課長を見上げている。 「えっ、ふうせん?……」  面くらった様子の課長も、少女のあどけない質問に、いくらか心を和らげたらしい。  無理に片方の頬に笑いらしきものを浮かべると、女の子の前にしゃがみこんだ。 「なかなか可愛らしい娘さんじゃないか、ほんとうに可愛い……まあ、君が会社を休んでつきあってやりたくなるのも分らんでもないが……」言いながら、ちょっと考え込み、「……うん、あるぞ、ありますよ、風船屋さん。確か、この西のはずれにある児童公園で、風船やおもちゃなんかを売ってるのを見かけたことがある。あそこへ連れていってもらいなさい」と、女の子の頭に手をのばす。 「わーい! やっぱり、風船屋さん、いるんだ。ね? おにいちゃん、あたしの言ったとおりでしょ? おにいちゃんたら、ほんとに、なんにも知らないんだから。ほら、このおじさんだって、ちゃんと知ってるじゃない。ばかみたい。おにいちゃん、ばかみたい!」  少女は課長の手をはねのけるようにして跳び上がった。そして、彼が教えた方角へ駆け出そうとする。 「課長……」  僕はぼんやりつぶやいて、彼の顔を見た。  課長は、どうしようもない奴だ、という表情で(行け!)と目で合図する。  僕は一礼し、後を追って駆け出した。  そのひょうしに、片足で飲みかけのジュースのコップをひっかけ、それを歩道にぶちまけてしまう。  しかし、振り向く勇気はもうない。  僕はすべてに背を向けて走り出す以外なかった。 「あれよ! あれよ! あったわ、風船屋さんよ!」  前を駆けてゆく女の子が、大声で叫んだ。  僕は息を切らしながら、ようやく少女に追いついた。  見ると、ビルの谷間にちょっとした緑地があり、そこが小公園になっている。  そして、その片隅に、色とりどりの風船を荷台にくくりつけた一台の自転車がおかれている。  そのかたわらで、初老の男が、うまそうに煙草を吸いつけている姿があった。風船売りに違いない。  追いついてきた僕の手を握って、女の子はなおも駆ける。  その姿に気付いた男が、ゆっくりと顔を上げた。 「ぜんぶ、ぜーんぶよ。風船を、ぜんぶ、ちょうだい!」  息を切らして、女の子が呼びかけた。  男は、困ったような、悲しそうにさえ見える精一杯の微笑で、僕と少女を迎えた。 「全部? ほんとに、よろしいんですか?」  男は、少女の差し出す手と、僕の顔を交互に見て目をしばたたいた。 「ああ……全部もらおう」  僕はため息まじりに言う。  男は首を振り振り「それじゃ、半額におまけしときましょう」と言いながら、数十個の風船をひとつにまとめてくくり、そのひもの端を少女に手渡した。 「わお! すごーい!」  喜びの声を聞きながら、僕は代金を支払った。 「おじょうちゃん、そんなにたくさん風船を持ったら、お空に飛んでってしまうんでないかい?」  代金を胸に下げた袋に収めた風船売りは、はしゃぎ回る女の子に、そう声をかけた。 「ううん、これだけじゃダメね。まだ、足りないわ」少女は答える。 「そうかね。じゃあ、今度は、もっとたくさん持ってこなきゃ」  男は新しい煙草に火をつけながら、少女にお愛想を言う。 「でも、こうすれば、お空に浮かべるわよ」  少女は言い、急に大きく息を吸い込み、頬をふくらませた。  僕はそのいかにも子供らしい思いつきに、口元をほころばせかけた。  その途端、すうっと背のびしたように見えた少女の足が地面を離れた。そのまま、空へのぼっていきそうになる。  僕は胆《きも》をつぶし、女の子の両脚にしがみついた。そして引き下ろそうとする。そのはずみで、少女は握っていた風船のひもを離してしまった。  僕と女の子は、どすんと地面に転がった。 「まっ、まあ! なにをするの!? とんでっちゃったじゃない、みんな!」  少女は今にも泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、僕の胸にこぶしを打ちつけてきた。 「だ、だって……きみは……」  僕は言葉につまり、なすがままになっている。 「あれまあ、買ったばかりで、なんか、悪いことしたみたいだねえ。よっしゃ、おじさん、家へ帰って、新しい風船持ってきてあげっから」  なんとなく居ごこちが悪くなったのか、初老の風船売りは、がたぴしと自転車を押して、公園から出て行った。  僕をさんざん叩いて、ようやく気が済んだのか、少女も鼻を鳴らして立ち上がる。 「帰りましょ、つまんない」  先に立って歩き出す。  僕らは、無言のまま、来た時の同じ路線バスでビル街を離れた。  バスを降り、あとはとぼとぼ歩いて、僕の家までもどってくる。  いつもならすぐに別れる少女が、今日はいつまでもついてくる。  しかし、まだしょげかえっている顔を見ると、追い返すわけにもいかず、僕は黙って、少女を僕の家に入れた。  少女はふくれっ面のまま、それでもおとなしく、ダイニング・テーブルに向かってちょこんと座った。  僕は紅茶をいれることにして、準備をはじめる。しかし、どうにも間がもたず、少女に話しかけた。 「しかたがなかったんだ。許してよ。風船はまた、いつでも買ってあげるから。だって、きみ、ほんとうに空に浮いてしまいそうだったもの……」  僕は言いながら、少女の顔を盗み見た。 「いつでもって、じゃあ、あした?」  ちょっと明るい声で女の子が言う。 「あしたは、まずい。今日だって、ズル休みを見つかっちゃったんだからね。もう、しばらくは、何があっても会社を休めない」  僕は答える。 「どうして、そんなに会社へ行きたがるの? 会社が好きなの?」 「いや……そういうわけじゃない。できれば、僕だって、きみみたいに遊んで毎日暮らしたいさ。でも、そうはいかないんだ」  僕は苦笑する。 「じゃあ、そうすれば?」 「でも、そうなると、お給料がもらえない。お給料がないと、食べるものも、それに、きみを空に浮かばせる風船だって買えないだろう? だから、会社へ行かなくちゃならないんだ」 「ふーん……食べ物と風船かあ……」少女は考え込むように目を天井に向けた。「でもね、風船なら、あたしガマンする。だって、あたし、風船がなくても、お空には浮かべるもの」  少女は言うと、椅子からぴょんと床に跳び降りた。 「ねえ、見て。こうするのよ」  少女は両手をのばし、いつものだぶだぶの赤いデニムのズボンのすそをつかんだ。そして、かけ声とともに、それを勢いよく引っ張り上げる。  と、少女はちょっとだけ床から離れて宙に浮いた。  だが、すぐに力がつきて、ストンと落ちる。 「ふう……やっぱり、風船がないと疲れるけど……」  女の子は、また考え込む仕草で首をかしげた。 「でも、風船はガマンするとして、あとは、おにいちゃんの食べ物よね……うん、そうだ!」  少女の顔が、その思いつきで、やっと光り輝いた。 「そうよ! おにいちゃん、ぬいぐるみになればいいんだわ。そうすれば、もう食べるものの心配はいらないし、会社にだって行く必要ないんですもの。そうよ! そうすれば、これからずっと、あたしと毎日遊んで暮らせる……あたし、きっとおにいちゃんのぬいぐるみと遊んであげる、ね? いいでしょ、きっと、かわいがってあげるから!」  少女は、僕にまとわりつき、僕の足にかじりついたりしながら興奮して喋り続ける。 「……そうよ! いちばん、いいわ! そうすれば、もう、毎日、毎日、楽しく遊ぶだけ……したくないことなんて、なーんにもしないでいいんだから!」 「ぬいぐるみ? ぬいぐるみって……」  僕はぼんやりつぶやいた。  そんな僕に、どこから見つけてきたのか、少女は、長いステンレスの包丁を差し出して、なおも言うのだった。 「さあ、早く! 早くして! そうして、もっと遊びましょう」  包丁を受け取りながら、僕は思うのだった。 (でも、この子が僕のぬいぐるみに飽きちゃったら、僕はどうすればいいんだろう)  初恋の街 「あなたァ! 押入れ、まだ片付かないの!? 真一は、さっきから待ってるのよ。机だって運び上げなきゃなんないんだし、のんびりしてると、今日中には終らないわよ。聞こえてるの、あなた!?」  階下で、妻の良江が大声を張り上げている。 「もうすぐだ……すぐに終るよ。あと、段ボールをひとつ整理するだけだ……」  わたしは吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、うんざり、顔をしかめて返事をする。  そして再び、押入れの中に頭を突っ込んだ。  今日はわたしにとって、ここ数年怖れ続けていた最悪の日だった。  つまり今日を最後に、わたしは、わたしの唯一の砦《とりで》だった書斎を追い出されることになったのだ。  上の子供真一が来年から中学校。今までは、小学四年の妹と同じ勉強部屋に押しこめていられたのだが、これからは兄妹と言えども男女同室はよくない、と良江が主張しはじめた。  その尻馬《しりうま》にのって、真一もにわかに「個室! 個室!」とさわぎだす。  しかし、子供の方は勝手に大きくなっても、変わらないのが住まいの広さだ。  長期ローンでやっと手に入れた我が家は、二階建て3LDK。つまり、部屋は三室しかない。  これまでは、それを、夫婦の寝室、子供たちの勉強部屋、そして、わたしの書斎という風に使っていた。  だから、真一がどうしても個室を欲しがるとなれば、わたしがこの部屋を出て行く以外に道はなかったのだ。 (ああ……ついに、俺は家庭内で安息の場所をなくしてしまうんだ……)  その思いが、わたしに重くのしかかっていた。  これからのわたしは、否応なく、妻の良江とふたり、居間で顔をつきあわせて暮らさなくてはならない。自分だけの時間は、永久に失われたままだろう。そして、際限のない良江のグチ、やつあたり、さらに近所の下らない噂《うわさ》話にさらされ続けなくてはならないのだ。  それを思うと、背中に悪寒が走った。  子供が二人生まれ、それが学校へ上がるにつれて、わたしと良江の間は完全に冷えきっていた。  良江は昇進の遅いわたしに対して憎悪に近い感情を抱いていたし、わたしもまた、中年のヒステリー症がもろに出はじめた良江に、すっかりあいそをつかしていた。  そもそも、三十過ぎまで独身だったわたしが、会社の上司に半ば押しつけられた良江は、その時すでに典型的なオールド・ミスだった。  わたしたちは、何とはなしに交際し、何とはなしに結婚した。そして、何とはなしに子供をつくり、家庭生活の真似事《まねごと》を続けてきたのだ。 (……ああ、何て人生だ……)自分のふがいなさに涙がでてきた。もう今年で四十七歳、どうあがいてもやり直しはきかない。わたしは唇をかみしめ、押入れの奥から、古ぼけた段ボールを引きずり出した。 「不用なものは、全部すててもらいますからね」というのが、良江の宣告だった。そしてその宣告通り、良江は、わたしがどうしてもとっておきたいと主張した雑誌や、さまざまな思い出の品を、次々にゴミ箱へ送り込んでいた。  この段ボールの中身もまた、運命は決まっていた。せめて一目だけでも、とわたしはその箱を開いた。 (あっ! これは……)  カビ臭さといっしょに、そこから、一種独特の青春のかおりとでもいったものが立ちのぼってくるような気がした。  懐かしさに、思わず顔が上気した。  そこには、わたしの大学時代のノートや写真、数々のメモや日記がつめこまれていたのだ。 (まだ、こんなものが残っていたなんて……)  わたしは貴重品を扱う手つきで、それらをひとつひとつ確かめていった。思えば、わたしの人生がまだ輝かしかった頃《ころ》の遺品たちだ。わたしの意識は、いっきょに三十年近く昔の、その時代に逆行していった。  そして、わたしはふと、一冊の、すっかり黄ばんでしまったノートを手にとってみた。  表紙には≪美学概論≫とある。さらに、�文3C 板橋進�と、わたしの名前。  頁をめくると、その間から、出席表やレポートの下書きなども見つかった。 (……うーむ、確かに、三年の時、こんな授業を受けたなあ……)  わたしは、現在のこの生活とは余りにも無縁で、超絶的としか思えない�美学�に関するノートを読み進んでいった。  それがいよいよ最後の頁まできた時、わたしは、ノートの白紙の部分に、わたしの文字とは明らかに異なる走り書きを見つけて驚いた。 (おやっ!? いったい、誰《だれ》が……)  わたしは、急いで書きなぐられたその文字を、ノートを斜めにして読んだ。 ——明日の日曜、エリーゼで待ってます。これを見たら、きっと来てくださいね。わたしは、二時からエリーゼにいます。一時間、待ってます。お話がしたいんです。 十月十六日 吉野マリ  そこには、そう書かれていた。 「吉野……あっ! マリちゃんだ……」  わたしの心臓が、急に跳ね上がった。  それもそのはずである。吉野マリとは、クラスがいっしょだった二年まで、わたしがずっと、ひそかに想いを寄せていた初恋の女子学生の名前だったのである。 (な、なんてことだ……)  彼女の筆跡を見つめるうちに、その面影がありありとわたしの脳裡《のうり》によみがえってきた。  色白で、少女のような可憐《かれん》な顔立ち、そしておとなしい、上品な言葉づかいや、その物腰……。  幾度、彼女に声をかけようと思ったかしれない。手紙も、書いては破り、破っては、また書いた。  しかし、彼女が余りにもひかえめで、頼りなげな様子であるために、そのことがかえって、彼女に近寄りがたい雰囲気を与えていた……。 (そう……彼女を狙《ねら》っていたクラスメートは多かった……でも、結局誰も、マリちゃんには手が出せなかったんだ……)わたしは深い深い溜《た》め息をついた。(……そして、このわたしも、いつか、彼女をあきらめてしまった……)  ノートを持つわたしの手が、ぶるぶると震えはじめた。 (待てよ! 十月十六日だって!? ということは、十七日の日曜、彼女はエリーゼでわたしを待っていた、ということか……なんてことだ! それは、今日だ! 今日は十月の十七日、日曜日じゃないか!?)  信じられないほどむごい偶然だった。  三十年近く過ぎた今日になって、わたしは、はじめて、初恋の人の内気な誘いに気付いたのだ。そして、年こそ違え、今日は、彼女がわたしを待っていると書いた、その日、その曜日なのだ。わたしは、運命のいたずらを激しく呪《のろ》った。 (エリーゼ、か……覚えているぞ。確か、正門近くにあった古い音楽喫茶だ!)  わたしは、矢も盾もたまらず、ノートをつかんで立ち上がった。時計を見ると、一時五十分。ここから、大学まで、四十分もあれば行けるはずだ。  わたしは階段を駆け降りた。  素早く着替えると、玄関に出る。 「あなたっ! どこへ行くつもりなの、片付けは済んだの!?」 「タバコだ、タバコを買ってくる」  わめきたてる良江に適当に答えて、わたしは走り出した。  このわたしを待って、一時間、エリーゼで嫌な時間を過ごした吉野マリのことを思うと、胸がはり裂けそうに痛んだ。  今からでは余りにも、余りにも遅すぎた。  しかしそれでも、駆けつけなくては、わたしの気持がおさまらなかった。  もし、その二十七、八年前、わたしがノートの走り書きに気付いていたとしたら、自分の人生が全く別のものになっていたような、そんなやりきれない思いがあった。  わたしは走った。そして、定期で駅の改札を駆け抜けると、入線してきた電車にとび乗った。  新宿へ出て山の手線に乗り換え、さらにいくつめか……わたしは今だに学生街として知られるその駅で電車を下りた。  卒業以来、数回しか立ち寄ったことのない街の様子は、すっかり変貌《へんぼう》していた。  駅前の安い食堂街は立派なビルになり、行きつけのパチンコ店だった場所には、総合レジャー・センターの看板がかかっている。  行きかう若者の姿も、昔からは想像できないほどきらびやかで、しかも薄っぺらなものに見えた。  わたしは、それでも、ただ憑《つ》かれたように歩き続けた。  額にうっすらと汗をかきはじめた頃、ようやく懐かしい大学の正門が見えてくる。そのたたずまいだけは、昔とちっとも変わっていなかった。  それだけではない、正門通りの左右にある古本屋、それに理髪店や正帽の指定販売所などが、昔のままの店がまえで残っている。  わたしはふと、自分が、青春のあの時間に、再びまぎれこんでしまったような錯覚にとらわれ、小わきにかかえてきた美学概論のノートをそっとなぜた。  日曜なので、校内にほとんど人影はない。  しかし、体育会系の学生なのであろう、きちんと制服、制帽に身をかためた数人が、歩いている姿がここから見えた。  それはまさに、昔通りの光景だった。  わたしは、ようやく速足をゆるめ、ゆっくり、正門前の広場を横切っていった。 (エリーゼは、確か、学生小路を入ってすぐだったはずだ……)  わたしは、その細い通りを目で探した。  しかしエリーゼは、当時ですら、相当に古ぼけた音楽喫茶だった。とても現在まで、そのままの姿で残っているとは思えない。 (それでもいい……その跡を見るだけでも……)  わたしは妙に居ごこちのいい、あたりの街並を眺めながら、学生小路に足を踏み入れた。 (このあたり、まったく昔と変わっていない……匂《にお》いまで昔のままだ……)  思い出の中の、学生街の空気が、わたしの周囲にはあった。それが、わたしの荒んだ心をしなやかなものに変えてゆくような気がした。  その時だ。  いきなりわたしの目に、古ぼけたレンガ造りの喫茶店と、ツタのからまった看板がとびこんできた。 ≪名曲喫茶、エリーゼ≫  わたしは、息をのんだ。微かに、ひざが震えた。わたしは落ち着きなく、あたりを見回した。  その一角は、どこもかしこも、まったく昔のままのように思われる。まるで、いつの間にか、過去の世界にさまよいこんでしまったのではないかと思えるほどだ。 (まさか……しかし……)その時、わたしには奇跡の予感があった。  わたしは、分厚いガラスをはめ込んだ、木製のスイング・ドアの前に立った。そして、それを押した。 「いらっしゃい」  店の奥から面倒臭そうな老人の声がする。  忘れもしない、あの気むずかしいマスターの声だ。昔はよく、砂糖を入れすぎる、ミルクももっと少なく、と学生たちがコーヒーの飲み方を説教されていたものだ。あの頃、もう彼は、七十をかなり過ぎていたはずだが……。  わたしは足を踏みしめながら、店内に入った。  と、すみの薄暗い席にひとりだけ座っていた客が、はっとした様子で顔を上げた。  若い娘だ。白いブラウスに紺のスカートという清楚《せいそ》ないでたちである。  その娘の唇が、思わず開きかけた。と、彼女は急に困惑したように顔を赤らめ、うつむいてしまった。  このわたしを誰かと人違いしたのだろう。  わたしは大きく息を吸いこんで、腹部に力を入れた。わたしの意志とは無関係に、心臓は早鐘のように打っている。しかし、香ばしいブレンド・コーヒーの匂いと、静かに流れる交響曲の調べが、わたしの心を少しだけ落ち着かせてくれた。  わたしはコツコツと床を鳴らして、その娘に近付いた。 「マリさんじゃありませんか? 吉野マリさん……」  わたしは呼びかけた。  彼女が、またはっと顔を上げた。 「……そうです……わたし、吉野マリですけれど、あなたは?」  消え入りそうな声だ。  わたしの顔を見つめる目には、明らかに驚きの声がある。 「板橋進クンを待っているマリさんですね?」  わたしは重ねて問いただした。自分の名前をクンづけで言う時のこそばゆさに、照れ笑いが浮かぶ。 「そうです。でも、あなたは?……」 「わたしは、い、板橋の……」つかえそうになる言葉を押しだすように、わたしは続けた。 「……つまり、その、わたしは進の伯父なんです」  下手な嘘《うそ》に、自分で冷汗がでた。  しかし彼女は、素直にそれを信じたようだ。 「まあ! 進さんのオジさまでしたの。どうりで、お顔が似ていらっしゃると思いましたわ」彼女は手で唇を押さえ、小さく笑った。しかし、すぐ不審気に眉《まゆ》を曇らせる。「でも……オジさまが、どうして、ここへ?」 「いや、それがですね……」わたしは額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》い、こわばった顔で彼女に笑いかけた。「……実は、進のやつ、昨日から急に熱を出してしまいまして。で、わたしが見舞いに行ったんですが、そこで偶然、このノートを見つけてしまったんです」  わたしは言って、美学概論のノートを彼女に差し出した。彼女の顔が、見る見る真っ赤になる。 「ところが、進は熱を出して唸《うな》っている。そこへこんなものを見せたら、また熱が上がるだろうと思って……それで、わたしが、代わりにお詫《わ》びにやってきたというわけです。いえ、いえ、あなたの名前は、いつも進から聞かされています。どうやら、進は、あなたに片想いをしているらしい……」 「あら、片想いだなんて……あたしの方こそ……」  娘は上気した顔を恥ずかしそうに伏せて、しきりにもじもじと肩をゆすった。 「ともかく、そんなわけなんです。どうか、これにこりず、進とつきあってやってください。お願いします。明日にでも、きっと、電話してやってください。ね、マリさん」  わたしは力をこめて、そう言った。それは、わたしの心の底からの願いだったのだ。  娘は顔を伏せたまま、こくりとうなずいた。  それで、充分だった。  わたしはくるりと吉野マリに背を向け、非難がましくわたしをにらむ店のマスターに黙礼すると、エリーゼを出た。  そのまま、逃げるように、駅へ向かって走りだした。  頭の中には、わけの分らない興奮が激しく渦を巻いていた。いったい、このことがどんな意味を持つのか、わたしには全く理解できなかった。いや、わたしは、それを理解したくなかった。  静かな正門前の広場を駆け抜け、駅に続く大通りへ出る。  するとそこは、昔の面影を、きれいさっぱり拭いさったまぎれもない現代の繁華街だ。ケバケバしい服装のやかましい若者たちが、我が物顔で行き来している。  わたしは雑踏に身をまかせ、駅への道を急いだ。たった今起こったことが、まるで夢の記憶のように、ぼんやり思い出された。しかし、わたしは首を強く振って、過去への未練を絶ち切った。  早く、一刻も早く、我が家へもどらなくてはならない。わたしたちが生きている世界は、この、現在なのだ。  もうとうに、妻の良江はヒステリーを爆発させていることだろう。  しかし、それでもかまわない、とわたしは思った。わたしの心は、何年ぶりかで晴れわたっていた。  ともかく、わたしは家へ帰るのだ。そこには、妻が待っているはずだ。  そして、もしかすると、その妻は……。  時の砂 「……タケシ……じゃあ、どうしても、行くのね……」  ミランダの瞳《ひとみ》は、暗い輝きを宿していた。  わたしはそれをまともに見つめ返すことができず、黙って微《かす》かにうなずく。  彼女は、マヤ族の末裔《まつえい》だった。その誇り高い美貌《びぼう》が、今のわたしには、ただまぶしかった。(……どうしようもない……しかたがないんだ……)わたしは、心の奥でつぶやき続けた。 「わたしには、分らない……なぜ、あなたが、それほど日本へ帰りたがるのか。つまらない名誉にこだわるのか……」  ミランダが、ひざの上でこぶしを握りしめたのが見えた。 「何度も言ったろう、ミランダ……これは、俺にとって、またとないチャンスなんだ。東京の一流大学が、俺に教授の椅子を用意してくれた。これをのがせば、俺は一生、うだつの上がらない研究者で終らなくちゃならない。俺がこの南米までフィールド・ワークにやってきた成果が、ようやく認められたんだよ。分ってくれ、ミランダ……きみは、つまらない名誉欲と言うかもしれないが、俺にとってこのチャンスは、何ものにもかえられないほど、重要なものなんだ……」 「このあたしの気持ちよりも?」  ミランダの目尻《めじり》がきつくなった。 「だから、結婚しようと言ってるじゃないか。そして、いっしょに、東京へ行こう!」  幾度も繰り返された同じやりとりが、またはじまった。  しかし、その行きつく先は分っていた。  ミランダと出会ったのは、二年前だ。  民俗学の研究のため、単身、南米へ乗り込んできたわたしは、ペルーのとある田舎町でミランダと知り合い、そして恋に落ちた。  わたしと彼女は、いつしか同じ屋根の下で暮らすようになり、わたしの現地調査を、彼女が献身的に助けた。その結果、わたしの論文は世界的にも評価されはじめ、そして、待っていた教授の席が提示されたのだ。  わたしは東京へ帰りたかった。いや、帰らねばならなかった。  そしてそれは、彼女との別れを意味していた。  なぜなら、ミランダは、わたしがどう説得しようとも、自分の生まれたこの土地を離れることに同意しなかったからだ。彼女は、自分の運命が、この土地にしかあり得ないと言い張った。そして、わたしの運命もまた、彼女とともにこの土地に結ばれているはずだ、と信じていたのだ。  わたしの心は痛んだ。なによりもわたしは、彼女を本当に愛していた。そして、この土地も決して嫌いではなかった。だが、男としての、そして学者としての本能が、やはり中央での栄誉を欲しがって激しくうずいていた。  わたしの決心は固かった。 「……そう……分ったわ、タケシ……どうやら、あなたの気持ちを変えることは、もう誰《だれ》にもできないようね……」  ミランダが、ほっと肩の力を抜いた。そして、立ち上がった。 「いいわ、タケシ。もう、わたしは止めない。ただ、思い出のために、わたしからの最後の贈り物を受けとってちょうだい」  ミランダは言って、壁際の古ぼけた戸棚に手をのばした。そして、その中から、小さな木箱を取り出した。 「なんだい? それは……」  木箱を見たわたしは、学者としての好奇心をそそられた。その表面には、古代マヤの奇怪なデザインに似た浮き彫りが、一面にほどこされている。しかし古いものではないらしく、けずられた木肌はまだ白っぽい。 「これは、あなたのために、わたしがマヤの呪術師《じゆじゆつし》に作らせたものなの」  ミランダは静かに言って、その箱の蓋《ふた》をとった。そして、中へ手を入れる。 「砂時計じゃないか……」  ミランダが取り出したものを見て、わたしは思わず目をしばたたいた。  確かに、それは砂時計のようだ。上下に石の台座があり、茶色っぽいガラスの中央のくびれ目を通って、細かな砂がさらさらと流れ続けている。  わたしは、それを見つめた。  そして、見つめるうちに、ようやく、それが、ただの砂時計ではないらしいのに気づいた。 「おい、ミランダ……そいつは、いったい、どういう仕掛けになっているんだい? いくら下に流れ落ちても、上の砂は少しも減らないし、下の方には砂がたまらない……」  わたしは、首をかしげ、それに目を近づけた。 「タケシ……これが、わたしの贈り物……この砂時計は、わたしたちマヤ族が、昔から�ニャガタ�と呼んでいる呪物なの。分るでしょう?……上の方には、砂がいっぱいにつまっている……そして流れ落ちている……でもそれが、下にはいつまでたってもたまらない。そう……そんな風に見えるでしょう? でも、それは見かけだけのこと。本当は、ちゃんと上の砂が減り、そして、下の方にそれがたまっているのよ」 「どういうことだい? この砂時計は、そんなに大きなものじゃない。いくら砂が細かくて、くびれ目が細くても、せいぜい、五分もすれば、全部が流れ落ちてしまうはずだ。その石の台座にでも仕掛けがあるのかな? 待てよ、ガラスの上下が不透明になっているところにカラクリがあるんだろう?」  わたしは、それに手をのばしながら言った。 「よく聞いて、タケシ。ニャガタとは、わたしたちの忘れられた言葉で、生命とか、運命を意味するものなの。そして、この砂は、ザガン……�時の砂�と呼ばれているわ」 「ニャガタ? ザガン? 聞いたことのない言葉だ……」  わたしは眉《まゆ》をひそめた。 「そう……これは、わたしたちの一族に代々伝わる秘密なんですもの。これは、ただの砂時計じゃない。ある人の、生命、運命……つまり、その人の�時�を計る呪物なの。この上にある砂が尽き、下の器が満ちて流れが途絶えれば、そこで、その人の時も終る……それを知るためのものが、ニャガタなのよ」 「その人……それは、いったい……」  ただの錯覚を利用したカラクリだとばかり思っていたわたしも、ミランダの真剣な説明を聞くうち、次第に、言いようのない気分に捉《とら》われはじめた。 「その人は、あなた……わたしが愛する、ただひとりの人、タケシ……このニャガタは、あなたの運命を知りたくて、わたしがこっそり呪術師に作らせたものなのよ……」  ミランダは言い、そして、その不思議な砂時計をわたしに差し出した。 「いいこと、タケシ……この砂時計は、絶対に逆さまにしたり、横に倒したりしてはいけない……そうすれば、あなたの時の流れが狂ってしまうことになるのよ、分る? いつでも、必ず、砂が上から下へ流れるこの状態に置いておかなくてはいけない……それだけは、約束してちょうだい……そうすれば、時の砂は、あなたの�時�が尽きるその日まで流れ続ける……そして、その日まで、わたしのことを、忘れないで……」  ミランダの顔に、謎《なぞ》めいた微笑が浮かんだ。それはすぐに崩れ、そして彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれた。 「お別れね、タケシ……でも、わたしとあなたの運命は、いつまでも結ばれたまま……」  わたしの胸に顔を埋め、マヤ族の娘は泣きじゃくった。  翌日、わたしはリマの空港から東京へと旅立った。  そして、一週間後、夢にまで見たその一流大学に着任した。  わたしを待っていたのは、大きな名声と、そして順調な毎日だった。  折からの古代史ブームで、わたしの書いたインカ、マヤに関する本はベスト・セラーになり、マスコミ界で、一躍、タレント並みの脚光を浴びた。  それにつれて、学問的成果とは無関係に、学内での地位も固まってきた。  やがて、次の学長候補と噂《うわさ》される大物教授の娘との縁談もまとまり、わたしの将来は、ますます光り輝きはじめていた。  しかし、だからといって、わたしがミランダのことを忘れてしまったわけではなかった。家に帰り、書斎の机に座れば、そこには、あの砂時計があった。それは相も変わらず、上から下へと、細かい砂を音もなく落とし続けている。いつまでたっても、くびれ目の上につまった砂が減る様子はなかった。砂はただ、下側のガラス器の不透明な部分へと流れ落ちてゆくばかりだった。  幾度か、それを逆さまにしたり、あるいは破壊してカラクリを確かめてみたい誘惑にかられはしたが、いつも、わたしは思いとどまった。  有力教授の娘と結婚し、ひとり栄達の道を歩んではいても、やはり、心の奥底で、わたしはミランダへの思いを絶ち切ることができなかった。いや、現在のわたしは、ミランダがいたからこそあるのだ、とわたしは思っていたのだ。  彼女の思い出までも踏みにじることはできなかった。  しかし、ともかく、わたしは得意の絶頂にあった。  次第に研究なぞそっちのけにして、学内政治や学界運営にばかり精を出すようになっていた。目の前に仕掛けられた罠《わな》にも気づかず、わたしはおだてや追従の海を泳ぎ回っていたのだ。  そして、わたしは、知らぬ間に破滅の淵《ふち》に立たされてしまっている自分を発見して驚愕《きようがく》した。  それは、研究資材購入に関する不正事件だった。  わたしは義父にあたるその有力教授に頼まれ、ごく軽い気持ちで、ある特定の業者との契約書にサインをした。  しかし、そこに多額のリベートがからんでいたことを学内の反主流派が追及しはじめ、わたしは窮地に追いこまれた。どうやら、リベートを受け取っていたのはその有力教授であったらしいが、義父は全面的にその事実を否定し、全ての責任をわたしに押しつけてきた。  そしてわたしには、それに反論する証拠も力もなかった。  わたしは教授の職を解かれ、大学を追われた。これまで周囲にまとわりついていた学界やマスコミ界も、潮が退くように、わたしから離れていった。わたしは、完全に失脚した。わたしに向けられているのは、世間の冷酷な目だけだった。  有力教授の娘である妻は、当然のように、離婚を申し出た。  わたしたちの間には、まだ子供がなかった。彼女は、自分にはまだ将来があり、わたしの破滅につきあうつもりはない、とはっきり宣言した。  わたしは、離婚届に印を押した。  わたしは、完全に孤立した。そして、名声にまかせて背負ってしまった多額の負債が、わたしの未来を暗黒に閉ざしていた。  わたしに残された道は、ただひっそりと、この世界から退場することだけだった。  自殺を決意した夜、わたしは遺書をしたためながら、ふと机のすみの砂時計に目をやった。  ゴタゴタにまぎれて、最近のわたしはその存在すら忘れてしまっていたのだ。  と、わたしは思わず目を丸く見開いた。砂時計の上の器にたまっていた砂が、もはや残り少なく、しかも、下側にそれが三角形の山をつくってつもりはじめているではないか。  ミランダが告げた通り、今や、わたしの運命は尽きようとしているのだ。 (……ミランダ!)  わたしは鋭い心の痛みとともに、彼女を想った。わたしにとって、何ものにもかえがたいのが、実は彼女の方であったのに、その時はじめて気付いたのだ。  わたしは、矢もたてもたまらず、砂時計に手を伸ばした。そして、それを握り、ぐいと上下を逆さまにした。  たとえ何が起ころうと、わたしにとって、現在以上に悪い状態であるはずがない。  と、たちまち、わたしの時が、逆流をはじめた。  別れた妻が家へ帰ってきた。そして、わたしは大学にもどり、不正事件が発覚し、そして忘れられた。……わたしは妻と結婚式を挙げ、また独身にもどった。わたしは再び、少壮教授としての栄光の日々を送り、やがて、大学を離れた。……そして、出迎えの人々に送られ、砂時計を手に、成田からリマへと旅立っていた。  リマの空港からはタクシーとバスを乗り継ぎ、そしてわたしは、ミランダが別れのために戸口にたたずむ、あの懐かしい二人の家へと帰ってきたのだ。  ミランダとわたしは、目と目で言葉にならない想いを交しあった。  二人は黙ってドアをくぐり、家に入った。  わたしは荷物を床に下ろし、上着の内ポケットに手を突っこんで、砂時計を収めた小さな小箱をとり出した。それを、やはり無言のまま、ミランダに差し出す。  彼女は、それをわたしに渡した時そのままの動作で小箱を受け取り、そして蓋《ふた》を開いた。 「帰ってくると思っていた……タケシ……わたしたちは、運命によって強く、強く結ばれているのよ……時間すらも、それには勝てない」  彼女は静かに言い、そして、手にした砂時計を、ぐいと逆さまにして、机の上に置いた。  その瞬間から、時間はまた、前に向かって進みはじめる。 「さあ、タケシ……これでまた、あなたの新しい運命の時間が流れはじめたわ」ミランダが、深い色を宿した瞳をわたしに向けて言った。「わたしは、あなたに、ここでもう一度訊《き》くわ……タケシ、どうしても、東京へ行くの?」 「いや……」再び青年にもどったわたしは、はっきりと首を横に振った。「わたしは、二度ときみから離れない」  わたしは荷物の中から、わたしを東京の大学へ教授として招く旨したためられた手紙を取り出し、それを破り棄《す》てた。  そのわたしの胸に、ミランダがとびこんできた。彼女の頬《ほお》に流れる涙は、今度は、喜びのそれだった。  鏡の中のあたし  デパートの包みを破り、真新しいレースのテーブル・クロスを取り出した。  それを、ちょっと気取った仕草で、机の上に広げてみる。  まん中に、ドライ・フラワーのポットを飾り、それから一歩下がって、部屋全体をゆっくり眺めわたした。  どうやら、やっと、あたしの部屋らしい雰囲気が出てきたように思う。  口元が、自然にほころんだ。  片付けはまだ終っていないけれど、ひと息つきたい頃合《ころあい》だ。  あたしはエプロンをはずして、お湯を沸かした。  ティ・パックをふたつ、大きめのカップに放り込み、濃い紅茶をいれる。ミルクをたっぷり注ぎ、それをすすりながら、ダイニング・チェアに腰を下ろした。  OL二年目……ついに手に入れた自分だけのお城。  紅茶のぬくもりといっしょに、うれしさがじわじわこみ上げてくる。  あたしのお給料などではとても借りられるはずのない高級アパート……いえ、ここはやはり、アパルトマンと呼ばなくちゃ……壁や柱、窓などあちこちに、アンチックな趣向が凝《こ》らしてある。  広さはそれほどでもないが、すべてにヨーロッパ調のワンフロア……女の子なら誰《だれ》もが夢見るに違いないこの一室が、今日からあたしひとりのものなのだ。 (なんて運が良かったのかしら……)  あたしは、改めてため息をついた。  この先三年ほど、日本を離れて外国暮らしをする女性がおり、彼女が不在の間、自分の部屋を使ってくれる女の子を探している……そんな話を友人から持ちかけられたのは二か月前。  しかも、家賃は別にいくらでも構わないという。無人のままで放っておくと部屋が痛むので、そのために間借りしてくれる人間が欲しいらしい。  一度は親元から自立してみたいと願っていたあたしにとって、これはまたとないきっかけだった。  あたしはすぐ、友人に紹介を頼み、ここを訪れて留守番役を申し出た。  幸い、相手の女性はあたしを気に入ってくれたらしく、その場で交渉成立。  彼女が備えつけていた趣味のいい(そしていかにも高価そうな)家具類も、すべてあたしが引き継いだ。  あたしはただ、衣類や食器、若干の身の回り品をたずさえて引っ越してくるだけでよかった……。  目を上げる。  すると正面の壁に嵌《は》め込まれた床まで達する大きな鏡の中に、紅茶のカップを両手で持つあたしの姿が映っている。  まるで、フランス映画の場面のような光景……でも、くやしいけれど、この部屋の新しい女主人として、あたしはちょっとばかり役者が不足に感じられる。 「……あなたの好きなように、自由にここを使ってくれてよろしいのよ。素晴らしい毎日になることをお祈りしてるわ。じゃあ、お願いね」  にっこり微笑んでパリへ旅立っていったこの部屋のオーナー……その彼女は、同性のあたしが思わずうっとりしてしまうくらい素敵な女性だった。  あの大きな鏡は、そんな彼女を、これまでずっと見つめ続けてきたのだろう。  それを思うと、妙にむずがゆいような気恥ずかしさを覚えてしまう。  あたし、小山陽子、二十一歳。  身長157センチ、体重48キロ……B80・W60・H86……自分で言うのもおかしいが、一人前の女として、けっこう満足のできるプロポーションだと思っている。  顔立ちにしても同じこと。クセのない黒い髪……目蓋《まぶた》は二重……鼻筋だって、それなりに通っている。大きすぎも小さすぎもしないすっきりした唇、歯並びもきれい……肌の色は白い方……顔の形は卵型……どこをとっても、別にこれといった欠点は見つからない。 (なのに、どうして……)  鏡の中の自分を見つめながら、あたしはつくづく考え込んでしまう。  そう……結局は、すべてに可もなく、不可もなし……際立った欠点もないかわりに、今ひとつアピールできる個性があたしにはない。 「あなた、きっといいお母さんになれるわよ」親類のおばさんから、いつも、そうほめられる。  つまりは、それが、あたし。  十人並み、という嫌な言葉が、どうしたって、あたしにはぴったりくる。 「でも、仕方ないわね……」  あたしは、鏡の中のあたしに肩をすくめて見せた。 「……これからはせいぜい、このお部屋に似合う女になれるよう努力してみるわ」  鏡の中のあたしが、あたしの言葉にうなずき返した。  そして……慌しい出勤の朝。  あたしは、トーストを頬張《ほおば》りながら、鏡の前に立つ。  引っ越しの疲れで、寝過ごしてしまった。 (さあ、大変! お化粧もまだなのに……)  化粧バッグを片手に、鏡をのぞき込む。  と、そこに、普段とどこか違うあたしが映っている。 (…………?)思わず、目をこらした。 (そうだ……眉《まゆ》の形が違うんだ!)  気付いて瞬《まばた》きすると、しかし、それは、いつものあたしにもどっている。  ちょっと不思議な気分。  一瞬の気の迷いだったに違いない。  だが、錯覚にせよ、その鏡の中のあたしの眉の引き方は、なかなかシャレていたように思う。 (そうねえ……)  あたしは面白半分、今見たあたしの顔を思い出しながら、横に細く、いつもと違うラインで眉を描いた。 (まあ! いい感じだわ)  確かに、そのちょっとした変化で、顔全体が生き生きして見えるような気がする。  小さな自己満足……その日一日、あたしは上機嫌で仕事に打ち込めた。  そして、そんな奇妙な錯覚を、あたしは、それから時々体験するようになっていた。  ある朝、鏡をのぞくと、そこに今まで試したこともないような明るい色の口紅をつけたあたしが映っていたり……。  お風呂《ふろ》上がりに、髪をカールしようとしてふと気付くと、鏡の中のあたしの方は、大胆な段カットのヘア・スタイルだったり……といった具合。  さすがに、度重なると、少しばかり気味が悪かった。  しかしそれ以上に、いつしか、あたしの中には、その鏡に対して期待する気持ちも生まれていた。  なぜなら、それら、鏡のアドバイスは、どれひとつとして、あたしを裏切るものではなかったからだ。 (まさか……でも、ひょっとして……これは童話の中に出てくるような魔法の鏡なんじゃないかしら?)  そんなロマンチックな考えすら抱くようになる。  これまで親元にいて、無理に平凡さを押しつけられてきたあたしの心が、この洗練された環境の中で、無意識の内に、はばたこうとしているのかもしれなかった。それがあたしに、錯覚という形で、働きかけているのかもしれない。  とにかく、鏡の教えに従うようになってから、あたしは、自分に隠されていた魅力を、確実に、ひとつひとつ発見するようになっていた。 「陽子ちゃん、この頃、急にきれいになったみたい……見違えたわ」  久しぶりに会った友達は、半ば呆気《あつけ》にとられた口調でそう言った。  社内の同僚の目が、驚きから、やがて少なからぬ嫉妬《しつと》に変わってゆくのを、あたしははっきり感じてもいた。 「あなた……いいひと、できたんでしょう。分るわよ。お化粧、ずい分、上手《うま》くなったもの」  しかし、それはメイクや髪型のせいばかりではなかった。  あたしを見つめ返す鏡の中のあたしの自信に満ちたまなざしが、あたしを内面から磨き上げてくれているような、そんな実感があった。  そして、あたしに、恋人ができた。  それは、同じ部に所属する五つ年上の経理マン……それほど目立つタイプではないが、仕事のしっかりできる、実直な青年である。  あたしは入社以来、この彼にひそかに思いを寄せていた。  しかし、これまでは、声を掛ける勇気もなかった。  彼以上に、あたしの方も社内では全く目立たない存在でしかなかったからだ。  だが、最近、そんな彼が、あたしをまぶしそうに見つめるようになった。  そこであたしは、思い切って、自分から、退社後、彼をお茶に誘ってみた。  彼は大喜びで、それに応じた。  以来二人は、急速に親しくなった。  いつしか、休日ごとのデートがあたしたちの習慣になっていた。  とはいっても、彼が思いつけるのは、映画館、美術館、それに公園の散歩で精一杯。あたしたちはまだ、口づけひとつ交してはいなかった。  それでも、あたしは幸せだった。  全ては、あの鏡のおかげだと思った。  鏡の魔法が与えてくれた魅力と自信がなかったら、あたしはいまだに、うじうじと片想いを続けていなくてはならなかったろう。 「ねえ、今度の日曜、あたしのアパートへ遊びにこない? うんと、ごちそうを作るから……」  ある日、あたしは彼にそう告げた。  彼が口に出したくて出せない決心を固めているらしいのが、あたしには分っていた。  それを、そろそろ、あたしは聞かせて欲しかったのだ。 「うん……しかし、押しかけたりして、迷惑じゃないのかい?」 「とんでもない。どうぞ、いらしてちょうだいな。でも、二人して居ると、ちょっと狭苦しいかもしれなくてよ。それは我慢してね。その内、あなたが、もう少し広い住まいを探してくれるといいんだけれど……」  女の心理にはまるで鈍感な彼も、さすがに、その謎《なぞ》だけは理解したらしい。  はっ、と顔を輝かせて、大きくうなずく。  約束は、午後の二時に決まった。  その日、あたしは、朝早くから起きて、彼を迎える準備に精を出した。  やがて、一時……どんな服装がいいかしら……あれこれ迷いながら、鏡の前に立つ。  と、また、あの幻覚に似た光景がそこにひらめいた。  鏡の中のあたしが、一瞬、濃いブルーのドレスを身にまとってみせたのだ。  あたしは最初、可愛らしく淡いピンクのワンピースを着ようかと考えていた。  だが、鏡がそう指示するのなら、まちがいはないだろう。  あたしは、そのドレスを頭からかぶり、再び、鏡の前に立った。  そこには、あたし自身がとまどいを覚えるほど、キリリと美しさを際立たせた女性が映っていた。 「これが、あたし……」  思わず、つぶやく。 「いいのかしら……あたし、ちょっと、出来すぎみたい……なんだか、彼が驚いちゃいそうな気がする……」  しかし着替えているヒマはなかった。  その直後、玄関のチャイムが鳴ったからだ。  あたしは大急ぎで散らばっている衣類を片付け、ドアを開けた。  そこには、ケーキの箱と花束をかかえた彼が立っている。  その彼は、やはり、あたしの冴《さ》えかえったような容姿に圧倒されたらしい。 「よ、陽子さん……今日のあなたは、その、信じられないくらい、きれいですね」  あきれ返ったような声だ。  どう答えてよいか分らず、あたしは曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》む。  そして彼を招き入れた。  お茶とお菓子で、しばらくは何気ない会話が続いた。  しかし、すぐに、それは途切れる。  彼は、ちょっとの間、黙りこくった。下をむいて、何事か、必死で自分に言いきかせている様子だ。  あたしも口をつぐんで、彼の次のひと言を待った。  ついに、彼は顔を上げた。そして、言った。 「陽子さん、僕、あなたのことが好きです。あなたを、どんなことをしてでも、幸福にしてみせます。結婚してください」  あたしの胸が熱くなった。  長い間想っていた人から、とうとうその言葉を聞かされたのだ。  あたしは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。  そして、鏡の方に向き直った。  彼の申し出を受ける前に、あたしをここまで輝かしてくれた、その不思議なもうひとりのあたしに感謝したかったのだ。  ところが、どうしたわけだろう。  鏡に映っているあたしの顔は、この感激の気持ちとはまったく裏腹に、冷たいあざけりの表情を浮かべているではないか。  そのあたしが、口を開いた。 「あなた、何か勘違いなすってるんじゃなくて? あたし、あなたがガールフレンドのひとりもいなくて、あんまり寂しそうだったから、ちょっと優しくしてあげただけ。あなたのことなんか、別になんとも思ってないのよ。それを、結婚ですって? あなた、自分が、本気であたしと釣合うなんて考えたの? 冗談じゃないわよ、物笑いの種になるだけだわ……」 (違う! あたしじゃない、あたしが喋《しやべ》ってるんじゃない!)  それは、鏡の中のあたしが喋っているのだ。  まっ青になった彼の顔が、屈辱に歪《ゆが》む。  その様子を、鏡の中のあたしが冷やかに眺めている。その瞬間、あたしは魔女のように、さらに美しさを増したように見えた。  彼が、鏡の中のあたしを見直した。  確かに……確かに……このあたしの外観に比べて、彼は余りにも平凡で見すぼらしい。 (でも、あたしの気持ちは違う……そんな彼が好きなのだ!)  しかし、あたしの叫びは声にならない。  あたしは今や、鏡の中のあたしに完全に支配されてしまっている。あたしの方が、彼女の鏡像となってしまったのだ。  彼が打ちのめされたように、うなだれた。  そして席を蹴《け》り、後ろを振り返りもせず、外へ飛び出してゆく。  あたしは心の中で泣きわめきながら、鏡の隅から消えてゆく彼の姿を目で追った。 「まったく……やっとここまで仕上げたっていうのに、あんな男の許《もと》へ走られでもしたら、苦労が水の泡になるところだった……」  鏡の中のあたしが、同じように彼を見送りながら、そうつぶやいた。  そして、あたしの方へ向かって歩き出す。  それはつまり、あたし自身が鏡の方へ歩き出すことでもあった。  二人のあたしが近付いた。  もう、鏡は目の前にある。それでも、鏡の中のあたしは足をとめない。  ついに、あたしたちは、鏡面を境に、くるりと入れ替わってしまう。  あたしは今や、鏡の中の世界にいた。  かわりに、もうひとりのあたしが、外へ出ていったのだ。  その彼女が、振り向いた。  彼女の像であるあたしも、そちらに向き直る。 「ああ、やっと自由になれた……」  自分の姿を確かめるようにポーズを取りながら、鏡の外のあたしは声をはずませた。 「これからは、思いきり、この身体で楽しまなくちゃ」  言ってくるりと鏡に背を向ける。  そして歩き出す。  彼が開け放したままにしていった玄関をくぐる。  あたしはただ、そんな彼女の動きをなぞるしかない。  後手に扉を閉める。  途端、すべての光景が消え失せた。  つまり、ここから先は、あの鏡に映ってはいない場所なのだ。  あたしの前には、ただ無限に、形を持たぬものたちがうごめく虚無と混乱だけが広がっていた。  あたしは何も映さぬ鏡の裏側に閉じ込められてしまったのだ。  あたしは悲鳴を上げようとした。  しかし、その声を出すべきあたしの姿は、すでにどこにも見当たらなかった。  双星記     1  一九七一年五月三十日、アメリカが打ち上げた惑星探査船マリナー九号は、同年十一月、火星の上空約千五百キロメートルを周回する軌道にのった。  そして、それからほぼ一年間、マリナーの各種観測機器は、貴重なデータとともに、実に七千枚以上にのぼる火星地表面の鮮明な写真を地球へ向けて電送し続けた。  この撮影作業が進むにつれ、それまで予想もされなかった数々の新事実が明らかになってきた。  そのひとつに、水流による浸食を受けたと見られる特徴的な地形、即ち河川跡の発見が挙げられる。  よく知られている通り、現在の火星地表には、液体としての水はまったく存在し得ない。  平均七・三ミリバールという極端に低い気圧のために、水は瞬時にして蒸発してしまうからである。  ところが、マリナーが写したそれら観測写真は、最長のもので一千キロメートルにも及ぶ数十本の大河、また数百本の中小河川、そして無数の小川、細流が、かつて火星の地表を縦横に縫って流れていたことを、はっきりと示すものだった。  この事実が物語ることはただひとつだ。  はるかな昔、火星は濃密な大気に囲まれ、豊富な水流を持つ、地球とよく似た環境の惑星だった。  それがある時期、途方もない何らかの激変を経て、現在のように荒れ果て、乾ききった死の世界と化してしまった……と考えられるのだ。  では、その原因は何だったのか。  アメリカの著名な天文学者カール・セイガンは、その気候的変動が、火星の歳差《さいさ》運動によって引き起こされたのではないか、との仮説を発表している。  さらに彼は、火星の歳差運動の周期から計算して、今から一万二千年前が、火星にとっての春ないし夏だった可能性がある、と類推する。  つまり、現在の火星は、ちょうど惑星にとって冬眠の季節なのだ、と彼は説明するのである。  そして言う——「……われわれが火星に到達するのは、一万二千年ほど早すぎたか、あるいは遅すぎたことになる」(『宇宙との連帯』)のだ、と……  …………  一九七六年七月、やはりアメリカが打ち上げた探査船ヴァイキング一号は、火星の北西|象限《しようげん》、ほぼ赤道に近いクリュセ(黄金の土地)と名付けられた平原近くの低地に軟着陸し、そこからカラーによる火星の風景写真を送りはじめた。  そこは想像されたとおりの赤茶けた荒野で、地平から上にはピンク色の幻想的な空がのぞまれた。  カメラは東から北へ、北から西へと、視界を変えて写真を撮り続けたが、そのなかで、科学者たちがことに興味をひかれたのは、南西の方角にあたる光景の右下に見える地形だった。  そこには、大地に浅く一本のミゾが刻まれており、まるで未舗装の田舎道のような具合で東西に走っていた。  地質学者たちは、それが干上がった細流の河床であろうと判断し、さらに写真をコンピュータ処理で引きのばして検討をはじめた。  その過程で彼らは、その乾ききった河床の一部に、まったく自然のいたずらとしか思えぬ奇妙な影を発見した。  それは、もしそこに水が流れていたとしたら、ちょうど小川のほとりにあたるであろう場所にくっきりと刻まれたくぼみだった。 「まるで、泥に押しつけた人間の手形のように見える……」と、カリフォルニア大学のレイモンド・クロフト教授は言った。「……あれでそばにサインがあれば、ハリウッドのマンズ・チャイニーズ・シアターにあるスターの敷石だと思うところだ」  その手形に似たくぼみは、ふたつあった。  ひとつは大きく骨ばって見え、もうひとつは小さく繊細だ。  それはちょうど、互いに差しのべあった二人の男女の手形のように見えないこともなかった。  そして、地質学者グループは、その影にちなんで、この流水の跡を≪恋人たちの小川≫と名付けたのである。     2  冬が迫っていた。  それは、年ごとの季節の移ろいとは関係なく、何百年も、何千年もかけて、忍び寄ってきた冬だった。  ジョセル・カセカウレは、重い外套《がいとう》をはおると、半地下式の通用口を抜けて、すっかり人影の絶えた街路に出た。  真昼だというのに薄暗い空からは、塵《ちり》のように細かく硬い雪が降ってくる。  それが乾いた突風にのって、彼の頬《ほお》を刺した。  ジョセル・カセカウレの透き通るように白い端正な顔が、その寒さのなかで、見る見る紅《あか》く染まってゆく。  彼は手袋をはめた両手で頬を押さえると、小走りに街路を北へ進んだ。  今日は八の日だ。  そろそろ最後になるかもしれない配給が、紫の広場で行なわれているはずだった。 「ジョセル! そこを行くのは、ジョセルじゃろう……ちょっと待ってくれんか」  背中から声をかけられ、彼は振り向いた。  すると街路を横切って、厚い毛皮の外套にくるまった小柄な老人が、ちょこちょこと駆けてくる姿が目に入った。 「ラーオ先生……お久しぶりです。まだ街にいらしたとは知らなかった」  ジョセルは息を切らして追いついてきた老人の肩を抱き、あいさつを交した。 「ジョセル君こそ、もうとっくに≪移民船≫に乗り込んでいると思っておった。いや、しかし、お互い、元気で何よりだ」  老人は人の好い微笑を顔いっぱいにあふれさせ、幾度も幾度もジョセルの肩を叩《たた》いた。 「ラーオ先生も今日が配給日ですか? ちょうどよかった、僕もこれから受けとりに行くところです。ごいっしょしましょう」  ジョセルはそっと老人の腕をとり、その歩行を助けながら、凍《い》てついた道を注意深く歩きはじめた。 「しかし、また、どうして君が残っているのかね? もう、街にいる市民は千人以下じゃろう。それも、十日後の最終便まで待たされた老人や病人がほとんどだと聞く……」  ラーオが不審そうにジョセルの顔を見上げた。 「その最終便まで、僕ら技師団は街を動けないんですよ、先生。≪移民船≫の最後の連絡艇が上がるまで、僕らは西の空港で働くことになっています。最終便のための作業はあさってからはじまるのですが、それまで、ちょっとした休暇というわけです」 「なるほど……それはごくろうなことじゃ」  ラーオ老人は考え深げにうなずいた。 「……最終便を送り出す、ということになれば、とうぜん君は≪冬眠≫の方を選んだというわけじゃな?」 「ええ、先生。選んだ、というより、僕らの場合は委員会による決定なのです。しかし、別に不服はありません。誰《だれ》かがこの星に残って、最後の仕事を済ませなくてはならないんですから……」  ジョセルは答え、ちょっと寂しそうに笑った。  二人はしばらく無言のまま、道を進んだ。  紫の広場へ近づくと、さすがにちらほらと人影が見えはじめる。  しかし、ラーオが言った通り、そのほとんどは長い船内生活に耐えられそうもない、と診断されて最終便まで残された老人たちだ。  たまに若い男を見かけるが、それはジョセルと同じく、移民作業に最後まで従事している技師たちなのであろう。  二人は広場の中央に設けられている配給所で証明書を示し、ひとかかえほどの包みを受けとる。そこに、十日分にあたる食料が収められているのだ。 「……まあ、なにはともあれ、こんな時期に昔の教え子に会えて、わしはうれしい。どうだね、ジョセル君、今夜はわしの家へ来んかね。ごちそう、といっても配給品ばかりだが、酒なら少しある。もう君とも二度と会うことはないだろう。今夜ひと晩、この老いぼれと別れを惜しんではくれまいか」  来た道を引き返しはじめた時、ラーオがそう切りだした。 「もちろんですとも、先生。お招きは喜んでお受けします。僕もさっきから、先生の家へ勝手に押しかけようかと考えていたところです」  ジョセルは白い歯を見せて、ラーオに笑いかけた。 「優しい子だね、いつまでたっても……。ジョセル・カセカウレは、子供の頃《ころ》から、わしの気に入りの生徒じゃった……」  ラーオ老人は、急にしんみりとした声になる。 「でも、先生……」そんな老人を力づけようと、ジョセルは快活に話しかけた。「今晩でお別れということはありませんよ。だって、先生が乗る連絡艇は、この僕が打ち上げるんです。空港でまた、先生をお見送りできるというわけです」 「いや、わしは≪移民船≫には乗らん……」  つぶやくように老人は言った。 「えっ!? なんですって、じゃあ、僕と同じで≪冬眠≫を選ばれたわけですか?」  驚いてジョセルが訊《き》き返す。 「いや、いや……地下の≪冬眠≫都市へ行けるのは、君のように若く、元気な市民だけと決まっておる」 「じゃあ、先生はいったい……」  言いかけて、ジョセルは口をつぐんだ。 「……なあ、ジョセル君。君はさっき、誰かが最後の仕事を済ませなきゃならない、と言ったね。わしも同じようなことを考えて、こうすることにしたんだ。つまり……この星が長い眠りにつくとき……この地上のありとあらゆる生き物が、皆いったんは死に絶える時……いっしょに、それにつきあってやる人間がいてもいいんじゃないか、わしは、そう思った。幸い、わしは、もうこれまでに充分長く生きてきた。思い残すことは何もない。≪冬眠≫都市で二万年先までこの老いぼれた身体を眠らせておく気持ちもないし。≪移民船≫で温室のように暑苦しい他の惑星へ行く気にもならん。だいたい、あんなに太陽に近い場所へ行ったら、きっと頭がどうにかなってしまう。そこで、わしは、ここで静かに終りを待つ気になったのじゃ……」  ラーオは、自分に言いきかせるように、ゆっくりと話し続けた。 「……そう……わしらの祖先、そのまた祖先……そのまた祖先も、決してこの星から逃げ出したり、人工的に冬眠しようなどとは考えなかった。誰もが皆、ただ自然の摂理にしたがって死を受け入れた。そのかわり自然は、あらゆる生き物がいっせいによみがえる≪春≫の復活を用意してくれているんじゃ……」 「しかし、先生……」ジョセルは、ふとこの頑固な老人に苛立《いらだ》ちを覚えて反論した。「……≪冬≫が続く二万年の間に、我々は築き上げた文明の全てを失ってしまうではありませんか。確かに、前期文明から何らかの知識を碑文に刻んで伝えてゆくというしきたりはあります。しかし、次の期の人間たちが、それを解読し、役立てられるようになった頃には、また次の≪冬≫がやってくる……この繰り返しでは、いつまでたっても進歩はありません。僕は先生の考え方もよく分ります。しかし、今回の≪移住≫という決断がやはり正しいものだと信じます」 「……その答は、二万年後に分る……再び≪春≫がめぐってきた時に……」  ラーオ老人は灰色の空に顔を向けてつぶやいた。  硬い雪に顔を打たれながらも、彼はまばたきひとつしようとしない。 「……まったく、不思議なものだのう、≪春≫の復活とは……」老人はなおもつぶやく。「……≪冬≫の時代になると、この大地はカラカラに干上がり、空気も水も、すべてがどこかへ消えてしまう、と学者たちは言う……しかし、この大地で死んだすべての生き物の遺伝子は、それまでの間に、流れとなり、蒸気となり、雲となり、雪となって極地に集まり、その極冠の氷のなかに封じ込められて保存され≪冬≫を越す……そして≪春≫、氷は再び溶けて流れとなり、蒸気となり、雲となり、雨となって、そしてあらゆる地表で、すべての生き物が、またいっせいによみがえるという……」 「先生、今からでも遅くはありません。≪移民船≫の登録所へ行きましょう。連絡艇の席は僕が何とかします。お願いです、先生。先生ひとりを、この街に残してはおけません!」  たまりかねてジョセルは叫んだ。  しかし、ラーオは静かに首を振るばかりだ。 「これは、わしが自分で決心したことだ。それに、遺伝子が極冠に集まり、そこに保存されて、再びよみがえるという学説が正しいとするなら、わしは二万年後に、新しい生命として、生まれたての人間として、この地上に復活することになる。わしは、今の自分のままで、ちょっぴり長く生きるよりは、その方がはるかにうれしい……どうか、わしの、この楽しみを奪わんでくれ。なあ、ジョセル……」 「先生……」  そう言ったきり、ジョセルは次の言葉を見つけられない。 「さあ、着いたぞ。あれが、わしの家だ。中へ入って暖まってくれ。とっておきの酒がある。今夜はひとつ、酔いつぶれるまでやろうじゃないか」  ラーオ老人は、暗い家並のなかにただ一軒、ぽつんと明りの洩《も》れる窓を指さし、ジョセルの物思いを断ち切るような大声で、そう言った。     3  最後の連絡艇が灰色の空に吸い込まれていった夜、ジョセルはもう一度だけ、ラーオ老人を訪ねてみようと思い立った。 ≪冬眠≫都市への出頭は、任務終了の翌日と決められていたから、これが本当に最後の別れとなるだろう。  ジョセルは≪冬眠≫に入るまでの数日間、都市で必要と思われる日用品をまとめ、それから住みなれた部屋を一度だけぐるりと見回して通用扉に向かった。 ≪冬眠≫から醒《さ》めるのは今から二万年後……その時、この部屋も、この街も、そしてこの星の文明のすべてがただの土くれと塵に還っていることだろう。  しかし、≪移民船≫数百隻に分乗して、この星よりも太陽に近い惑星へと移住してゆく人々とその子孫たちは、二万年という時間を利用して、文明をさらに高度なものへと押し上げてゆくに違いない。  ジョセルは街路へ足を踏み出すと、大きく両手を広げて冷えきった空気を深呼吸しながら空を見上げた。  今日そこには一片の雲もなく、無数の星がきらめいていた。  それに混じって、ジョセルたち技術者が、≪移民船≫の中継基地として打ち上げたふたつの人工衛星の姿もあるはずだったが、余りにも輝かしい満天の星屑《ほしくず》の中から、それを見つけだすことはできなかった。  ジョセルは「よし!」と自分で自分にかけ声をかけると、外套の前をかきあわせ、街路を音をたてて吹き抜けてゆく乾ききった寒風を押し分けるようにして歩き出した。  連絡艇の最終便を送り出した今、この街はジョセルのような技師で、まだ≪冬眠≫都市へ出頭していない例外的な数人を除き、ほぼ完全に無人と言えた。  にもかかわらず、誰かが消し忘れたのであろう街路灯が、辻々《つじつじ》をぼんやりと照らし出している。  ジョセルはその明りを頼りに、明日になればこの街で唯一の市民となるラーオ老人の住居をめざして進んで行った。  ジョセルが期待したとおり、老人の部屋の窓からは先日と変わらぬ暖かな光が洩れている。  ジョセルは、凍りついて滑りやすい道路の上を、それでもできるかぎりの速足で横切った。  そしてラーオ家の扉の前に立つ。 「ラーオ先生! 僕です、ジョセルです! もう一度、先生にお別れがしたくって……」  ジョセルは大声でそう呼びかけながら、扉を押した。 「よかった! まだ最終便は出発していなかったのね!」  突然、部屋の中で、ラーオ老人のものとは似ても似つかない高い声が上がった。  と同時に、小柄な影がそこから跳び出してくると、しゃにむに、ジョセルにしがみついてきた。 「よかった! ほんとに、よかった! あたし、もうてっきり駄目かとあきらめかけていたの。でも、やっぱり、まだ人が残っていた。ああ……ほんとうに、よかった」  それは女だった。  しかも若い。まだ少女と呼ばれるべき年齢のようだ。  ようやく驚きから醒め、我に返ったジョセルは、ともかく身体ごと、その少女を部屋に押し込んだ。  そして、扉を閉める。  開け放したままだった扉から吹き込んだ寒風で、部屋の温度は急激に下降していた。  しかし、少女は、興奮の余り、そのことにも気づかない様子だ。  再び「よかった、うれしい」を連発しながら、ジョセルの首ったまに抱きつこうとする。 「待て! おい、待つんだ!」  ジョセルはそんな彼女の肩を力まかせに押さえつけ、鋭い口調で質問した。 「君はいったい何者だ!? ラーオ先生の家で何をしているんだ!?」  怒鳴りつけられ、一瞬きょとんと目を見開いた少女だが、次の瞬間、突然、大粒の涙をふたつの瞳《ひとみ》からあふれさせ、声をあげて泣きはじめた。 「あ、あたし、こわかったの……だって、シュマルの村から、車で西の空港へ出発した途端、お母さんが熱を出して倒れてしまったんですもの……それで……あたし、空家を見つけて、そこでお母さんを看病したの……でも、いつまで経っても、お母さんの熱は下がらないんですもの……それに、それに、≪移民船≫行きの最終便が出発する予定日は迫ってくる……お母さんは、おまえだけでも先にお行き、と言うけれど、そんなこと、とてもあたしにはできなかった……でも、あたし、ひとりぼっちでこの星に取り残されるのも、とっても、こわかった……あたし、お母さんと二人きりで、ほんとに、ほんとに心細かった……」  少女はしゃくり上げながらも、早口で喋《しやべ》り続ける。 「シュマル? きみは、シュマルからやって来たのか?」ジョセルが訊く。「シュマルといえば、ここから北へ、車で二日以上かかる村じゃないか」 「ええ、ええ、そうよ……だから、あたし心配だった……早く空港へ行かなくちゃ、この星に置いてきぼりにされてしまう……そればかり考えて、必死でお母さんを看病した……でも、でも、お母さんはそのまま……」  少女はまた声を上げて泣きはじめた。  ジョセルも今度は優しく彼女の肩を抱き寄せ、その背中を片手でさすってやる。 「あたし、あたし、お母さんを土の下に埋葬したわ……それから、今度はひとりで車を運転してこの街へやってきたの……でも、街の中には、もう誰もいない……あたし、叫んだわ。そして走り回ったの……そうしたら、ここ一軒だけには明りがついている……きっと誰かいるんだわ、と思って、あたしここに入り込んだの……でも……」  少女は、急に言葉を切ると、身体をぶるっと震わせて、居間の奥にあるラーオ老人の寝室を振り返った。 「でも? でも、どうしたんだ!?」  少女の様子からただならぬものを感じたジョセルは、彼女をそこに残して、大慌てで寝室に跳び込んだ。 「ああ、何てことだ……」  ジョセルはよろめくと、寝台のわきにひざを落とした。  ラーオ老人は胸の上できちんと手を合わせ、寝台の上に横たわっていた。  彼の表情は、いつもと変わらぬおだやかなものだったが、にもかかわらず、彼の心臓がすでに動きをとめていることはジョセルにも一目で分った。  そして目を転じたジョセルは、彼の枕元《まくらもと》に、走り書きされた一枚の紙片を見つけた。  ——ああ、余りにも急すぎる。死よ、なぜ、あと十日が待てないのだ。そうすれば、わたしの復活の望みは、かなえられたかもしれないのに。今は、まだ早すぎるのだ。  紙片には、意外にしっかりとした文字でそう書かれてあった。 「……このご老人、あたしがここへ入ってきた時、まだ微かに息をしていたの……あたしが手を握ってあげると、一回だけ目を開いて笑ったわ……」  いつのまにかジョセルのかたわらにやってきた少女がそう言った。  ジョセルは唇を噛《か》みしめて立ち上がった。  そして少女に向き直る。 「きみ、名前は何ていうんだ?」ジョセルは訊いた。 「リリス……リリス・ネフティスといいます」  少女は答えると、急にはにかんだようにうつむいた。 「いい名だ。きみのことをそのまま言い表わしたように可愛らしい名だ」  それはジョセルの率直な感想だった。  心を鎮めて眺めれば眺めるほど、少女の可憐《かれん》な美しさがジョセルの心にしみ入ってくるように思われた。  そんな彼女に真実を告げなくてはならないと思うと、彼の胸はきりきりと締めつけられた。  しかし、それを言わずに済ますことはできない。  ジョセルは決心した。 「いいかい、リリス、よく聞くんだ……」ジョセルは言った。  少女はあどけなさの残る瞳で、まともにジョセルの目を見つめている。  耐えきれず、ジョセルは視線をそらすと、一気にあとを続けた。「……きみは、間に合わなかったんだ。残念だが、≪移民船≫への最終便は、今日の正午、西の空港から飛び立ってしまった」 「ま、まさか……う、うそだと言って、お願い……」 「残念だが、本当だ」 「そんな……そんな……じゃあ、あたしは、あたしは……」  いったん泣きやんだ彼女の声が、また激しく震えはじめた。 「リリス、泣くんじゃない!」ジョセルはわざときびしい声を出し、ひと呼吸おいてから、決心したように話しはじめた。「……いいかい、リリス、泣く必要はないんだ。≪移民船≫への連絡は確かに全て終ってしまったけれど、まだ≪冬眠≫都市がある。都市の門は、まだまだ閉じない。大丈夫だ、君は助かる」  少女はしかし、涙に濡《ぬ》れた顔を左右に振るばかりだ。 「いいえ、あたしは都市には入れてもらえないわ。だって、あたしは≪移民≫の登録をしたんですもの。≪冬眠≫都市は、登録を済ませた人の分しか寝台を用意していないはずよ。そうでしょう?」 「リリス、そのことなら心配ない……」ジョセルは、ゆっくりと息を吸い込み、そして言った。「この街のはずれにある第六≪冬眠≫都市には、ちょうどひとつ、空いた寝台があるんだ。そう、彼だ。彼の寝台が空いてしまったんだ」  ジョセルは、ラーオ老人の寝台を指さして言った。 「えっ!? 何ですって……でも、ご老人は≪冬眠≫が禁止されていたはずよ……」リリスが眉《まゆ》をしかめる。 「いや、彼は特別だったんだ。だから、彼は連絡艇にも乗らず、わたしといっしょに≪冬眠≫都市へ行くために、ここで待っていたんだ。そうじゃなきゃ、ここにいるはずがないだろう?」  ジョセルは言った。  リリスは半信半疑ながらも、こっくりと首を縦に振った。  しかし、彼の言ったことは全て嘘《うそ》だった。  彼はひとつの決心を胸の内で固めていたのだ。  彼はリリスに、自分の≪冬眠≫の権利をゆずるつもりでいた。そして自分は、ラーオ老人の遺志をついで≪春≫の復活を信じ、この地表にとどまる…… (それでいい……いや、それが一番いい……)ジョセルは思った。  本来なら、そうした権利の譲渡は許されないはずだが、この美しい少女がジョセルと交代するのだと言えば、反対する係官はいまい、と思われた。 「……ほんとうなのね? ……ほんとうに、あたし助かるのね……」  リリスがささやくような声で、ジョセルに訊いた。 「ああ、心配ない。もう、何も心配ないんだ!」  ジョセルはきっぱりと、そう少女に告げた。     4  めずらしく、今日は寒気がゆるんで感じられた。  だが、すでに、急激に気圧が落ち込んでしまった大気は、少しもジョセルに活力を与えてくれない。  ちょっと身体を動かすだけで、彼の肺は激しく酸素をもとめてあえぐようにすらなっている。  彼はすっかり水流が減ったウェニシスの小川のほとりに腰を下ろし、ぼんやりとあたりの様子を眺めていた。  ここはかつて、一年を通じて緑の草木が絶えることのない美しい平野だった。  しかし、今、彼が見渡すかぎり、およそ緑と呼べるような色は、拭《ぬぐ》いとられたように消えている。  かわりに、赤茶けたむきだしの岩や土が、大地の表面を占領しはじめていた。  ちょろちょろと流れる水の音を聞きながら、ジョセルはふとリリスのことを思い出していた。  彼女と別れてから、今日で何日が過ぎたろうか。 「……十日?……いや、十三日……」  もはやジョセルからは、時間や日にちの観念が失われつつあった。 ≪冬眠≫都市に彼女を送りこみ、自分はまだやり残した仕事があるから、といつわって逃げ出してきたジョセル……彼はそのまま、ラーオの遺志を継ぐために旅に出た。  彼は毎日、この小川に沿って、ただひたすら下流へ下流へと進んできた。  なぜなら、その方角はまちがいなく低地へ向かっており、そして低地であればあるほど、幾分かでも気圧が高いはずだったからだ。  だが、そんな彼の旅も、いよいよ終りに近づいたようだ。  彼は二日前、用意してきた食料の最後のひときれを胃に収めてしまっていた。  それ以来、彼は、その小川の水だけを頼りに、這《は》うようにして進んできた。  しかし、さしもの彼も自分の肉体的限界がはっきりと見えてきたことに気づいていた。 「≪春≫の復活、か……」  ジョセルはつぶやく。  彼の脳裡《のうり》には、あのラーオ老人が憑《つ》かれたように喋りまくった�復活�の理論が、未《いま》だにはっきりと焼きついていた。 (それもいい……これでいい……)  ジョセルは考えた。  死、ということに対しては、未だに恐怖心をすてきれなかったけれど、日が経つにつれ、その恐怖よりも�復活�を信じようとする気持ちが強まってきたようだ。  だが、ともかくも、彼がまず直面するのは、冷酷な≪冬≫であり、その結果としての容赦のない死だった。 (あっ! また……)  ジョセルは思わず耳を押さえて、あおむけに倒れた。  また、気圧が、それと分るほど変化したのだ。  大気が途方もない勢いで、どこかに消えてゆくのが、実感として彼には分った。  ゆるやかに、ゆるやかに忍び寄ってきた≪冬≫は、ついにここで正体を現わし、全速力で、この惑星を食いつくそうと襲いかかってきたのだ。 (あっ! また……)  今度は息が極端に苦しくなった。  ジョセルはあえぎ、そして、そのまま、気を失った……  …………  気がつくと、あたりは夜だ。  空は、信じられないほど澄み切っており、星々がとてつもなく大きくはっきりと見えた。 (あれは……あれが衛星か……)  ジョセルは、その豪華な宝石の展示台の中から、≪移民≫のための中継基地となっている二個の人工衛星を見つけだした。  その星の回りには、砂をまいたように小さな光点が散りばめられている。  恐らくは、それが≪移民船≫団に違いない。  目を凝《こ》らすうちに、その小さな粒が、ひとつ、またひとつと光の尾を引いてわずかずつ移動しているのが分ってきた。 (そうだ……彼らは、ついに出発したんだ……もうひとつの惑星へ……)  ジョセルは、うらやみもねたみも、またさげすみも、そうした感情いっさいなしに、ただ純粋な感嘆の気持ちで、その宇宙への壮途を見送った。  そうするうちに、彼はふと、自分の名前が確かに呼ばれたような気がして頭をめぐらした。 「ジョセル!……見つけたわよ、ジョセル・カセカウレ……」  今度ははっきりとそう聞きとれた。 「誰だ……僕の名を呼んだのは……」  空腹と酸素の欠乏による幻聴かもしれない、とジョセルは思った。  しかし、それにしては、余りにも生々しい声だ。 「誰……どこにいる……」  もう一度、闇《やみ》のなかを透かして見た時、彼は星明りの下に、信じられない顔を見つけて目をむいた。 「リリス……リリス! いや、これは幻覚だ……あの少女が、こんなところにいるはずはない。彼女はもう何日も前に、≪冬眠≫に入っているはずだ……だが、たとえ、幻覚であってもいい……もっと、こっちへ来ておくれ……僕はきみのために少しでも役に立てたことがうれしいんだ。ほんとうに、それだけで、僕はうれしいんだ……」  ジョセルは、そのリリスに似た幻影に手を差しだした。  するとその幻影が動いた。  疲れきった足取りで、その幻影は、ジョセルの方へよろめくように近づいてくる。 「ジョセル・カセカウレ……かわいそうなひと……あなた結局、リリス・ネフティスを≪冬眠≫させることはできなかったのよ……」  その幻影が言った。 「何だって!? どういうことだ……」  ジョセルが叫ぶ。 「だって、リリス・ネフティスは、都市の係官から、真実を全て訊きだしてしまったんですもの。そして、ジョセルが≪春≫の奇跡、復活を信じて旅立ったことも教えられた……そこで、リリスは、彼の後を追って都市を脱け出した……」 「ま、まさか……君はほんとうに……」 「……だって、新しい世界には、新しい男と、新しい女が必要じゃないこと?……復活のその日、あなたのそばには、あたしが立っていなくちゃいけない……そうよ、ジョセル・カセカウレ、そのために、あたしはやってきた……」 「リリス……リリース!」  ジョセルは跳ね起きた。  いや、跳ね起きるつもりだった。しかし、その動作は、いかにも緩慢で苦しげだった。 「ジョセル、ああ、ようやく、あなたを見つけた……」  駆け寄ろうとしたリリスも、乾き切っていない小川の泥に足をとられて転倒する。  その時だ——  また激しい気圧の変動が起こった。  それは、二人のかたわらを流れる小川の表面を不気味に震わせたほどのすさまじい変化だった。 (これまでだ……)  ジョセルは最後の時を悟って、死にもの狂いでリリスに手を差しのべた。 「ジョセル……ジョセル!」  絶叫しながら彼女もまた手を差し出す。  しかし、その声を伝えるには、すでに大気は余りにも稀薄《きはく》になっていた。ついに≪冬≫がはじまったのだ。……     5  ある朝、干上がった一本の河床に、ひと筋の清らかな水が流れはじめた。  それは見る見るうちに水量を増し、その次の朝には、あたりに心地良いせせらぎの音を響かせるまでになっていた。  流れは、そのまわりの土や岩をけずり、さらに大きな流れとなって勢いを増した。  三日後、その小川の水面に、ふたつの人影が映った。  彼らは互いに腕を握りあい、肩を寄せあって、いずこからかここに現われたのだ。  そのうちの一人が、ふと対岸に奇妙なものを発見して相手に教えた。  それは、ちょうど小川の水流が渦まくあたりの砂地に刻まれたふたつのくぼみだった。  最初にそれを見つけた男は首をひねり、しきりと自分の手と、そのくぼみを見比べた。 「これとあれは、似ている」  さんざんに考え込んだ末、男は言った。 「ええ……似ているわ。誰か、あたしたちでない人間が、つけたのかしら」  女は、男よりも滑らかに言葉を操った。  しかし、二人がそれを見つめるうちに、砂のくぼみはもろくも水流に負けて崩れてゆく。 「手の形、消えた」と男が言った。 「やはり、ここには、あたしたちしかいない……そうよ、あたしたちだけだわ」  女が楽しそうにそう答えた。  …………  二人の子孫はやがてこの地に満ち、そして一万年にわたる繁栄の末に、他の惑星にまで船を乗り出すようになった。  そして彼らは、太陽から数えて三番目の惑星に、彼らの前期人類が残したと思われる遺跡を発見した。  だが、≪冬≫の浄化を受けて新生することのできなかった祖先たちの末路は、余りにも悲劇的で、呪《のろ》われたものであったという。彼らは、喪《うしな》われた楽園の神話を追い求めつつ、ついに復活なき滅亡の淵《ふち》へと沈んでいったのだ。 さあ、物語をはじめよう     1  子供たちが、飛んでくる。  丘を越え、風に乗って、やってくる。  白い和毛《にこげ》が、朝の光にきらめいている。  はずむように、ただようように、白い子供たちが、じゃれあいながら、斜面を駆け下りてくる。  それが窓から見えたので、わたしは首を振り振り、立ち上がる。  上天気だ。いい一日になりそうだ。  わたしは机の上のパイプを取り、それを口の端にくわえると、部屋を横切って扉を開けた。  陽光といっしょに、柔らかな風が吹きこんでくる。風には匂《にお》いがある。馨《かぐわ》しい花の匂いだ。  わたしは、それを感じる。  大気が生きている。草原の朝だ。  花を追って飛び回る昆虫たちの羽音もにぎやかだ。その姿は、まるで風にまじる金粉のようだ。  美しい、朝だ。  わたしは、思う。  たまらず、わたしは声をあげ、そして子供たちに手を振った。 「おーい、おーい、おーい!」  それに応えて、子供たちは見事な宙返りを打ち、たがいに勢いを競いながら舞い降りてくる。  わたしは、ゆっくりと戸口をくぐる。扉を後ろ手に閉め、地面に腰を下ろす。  そのわたしを取り巻くように、子供たちも地面に足をつけた。  わたしはひとりひとり、彼らの頭をなぜてやる。 「やあ、ラン……ロン、それにルーンもいるね……うむ、それに、あとの二人は新顔かな……」 「おはよう、人間《マン》」 「おはよう、地球人《テラン》……」  子供たちの声も明るい。  わたしは、彼らに微笑《ほほえ》みを返す。 「マン……また、僕たちに、地球の話、宇宙の話を聞かせてくれる?」  わたしがルーンと名づけた子供のひとりが、甘えるような声で言う。  彼らは名前というものを持っていない。それは大人にならなければつけてもらえないのだ。だからわたしは、勝手に子供たちに名前を与える。  彼らの毬《まり》のような白い身体には、微《かす》かに複雑な縞《しま》の模様がついている。その模様は、ひとりひとりが皆違う。わたしは、その模様を文字に見たて、そして彼らに名前をつける。 「……いいとも、いいとも……話してあげよう。そう……その前に、新入りの二人にも、呼び名を考えてあげることにしよう……」  わたしは、はじめてここを訪れたふたりの子供の背をなぜながら、模様を読む。 「……うーむ、これは難しいぞ……よし、君は、レーイ……そして、このちいちゃな子はムーンだ。いいね……よし、では、はじめようか……」  そして、わたしはパイプをくわえ直し、彼らを見回す。 「マン……マンの生まれた国、ここから遠いの?」  今日はじめて、わたしのもとへやってきた子供のひとりが、たどたどしい言葉でそうきいた。  人間《マン》の言葉を彼らに教え、広めたのは、このわたしだ。  彼らは本来、あまり音声をつかっては話さない。声は、感情を表現するためのもので、複雑な会話はすべて頭の中だけで行なう。  しかし、わたしには、彼らの�心の声�が聞こえない。どうしても、わたしは、それを聞きとることができない。  そこでわたしは、彼らにわたしの言葉を教えたのだ。  それを彼らが理解し、話してくれるようになるまで……それは、それは長い時間がかかった。気の遠くなるほど、長い時間が……。  だが、今、彼らは仲間どうしでさえ、冗談半分に、わたしの教えた言葉を使うようになっている。声をだして話しあうことの楽しさを、彼らが知りはじめたからだ。  そして今、大人たちは、しきりとわたしから�文字�を習いたがっている。  だが、子供たちは別だ。  子供たちは、文字などに用はない。彼らはただ、わたしの口から、見知らぬ地球と、そして宇宙の、不可思議な物語を聞くためだけに�言葉�を覚え、そして、やってくる。 「ねえ、マン……マンの生まれたくにの話をして……」  ムーンが再び、わたしにそうねだった。 「よし、では、話そう……」  わたしはパイプを口からはずし、それを手の中でもて遊びながら、これまで幾度となくそして幾代となく、この星の子供たちに話してきた物語をくり返しはじめた。 「……マンの故郷は、ここから、ずっとずっと、はるかかなたの宇宙にある�地球�という星だ、いいかね……どのくらい遠いかというと、わたしたちの言葉で二万光年……つまり、この宇宙で一番に足の早い�光�でも、二万年飛び続けなくては着けないような、それは、それは、遠いところにあるのが地球なんだよ……」 「マン、それほど遠い場所から、マンはどうやってここまで来たの?」  口をはさんだのはレイだ。 「大きな船にのって、そして旅してきたんだ……暗黒の宇宙で、跳躍《ジヤンプ》を繰り返しながら、二万光年という、途方もない距離を越えてきた……そうさ、行く先々で、数々の冒険をしながら、わたしは、やってきたんだ……」  わたしは風にそよぐ草原をゆっくりと見回しながら、子供たちに話し続ける。 「マン、僕たちはその冒険の話が聞きたい!」  ロンが勢いこんで言う。そのひょうしに、彼のまるい身体は、二メートルも地面から跳び上がる。  彼らは、不思議な和毛と、そして空気|嚢《のう》の働きで、空に浮かび、そして宙を飛ぶことができるのだ。  ロンに続いてふわふわと地面を離れ、期待に満ちてはしゃぎまわる子供たちを、わたしは制した。 「そう騒ぎたてちゃいけない。さあ、ラン、それにルーンも、おとなしく地面に座りなさい。じゃないと、マンはお話をやめてしまうよ」  わたしの言葉で、彼らはいっせいに地面に降り、そして和毛をたたんで小さく丸まった。 「よしよし……それでいい……」  わたしは幾度もうなずきながら、彼らを見回す。そして、話しはじめた。 「……わたしたち地球人《テラン》は、この宇宙で、もっとも勇敢な、しかも知恵のある種族と言われている。わたしたちは、大きな船を、いくつもいくつも作り、そして大宇宙に乗りだしてきた。ん? このわたしか? わたしは、そんな船乗りのひとりだよ。大きな冒険船の船長、それがわたしの職業だ。わたしの部下は、およそ、三百人……ああ、みんながみんな、若くて、有能な部下たちだった。わたしたちは、星から星へと渡り歩き、そして、幾度も未知の敵と闘い、とても信じられぬような発見をしたものだ。さて、それでは、わたしがコンダン星系で出会った、怪物の話をしようか……」  わたしは身振り手振りを交えながら、丸半日、次から次へと冒険を物語った。  そして子供たちは、言葉を話すことも忘れ、ただそれに聞き入るのだった。  これが、わたしの毎日だ。  もう長いこと、はるかな昔から、わたしはこうやって暮らしてきた。  いつまでも来ない迎えの船を待ちながら……。     2  万能車《マルチ・カー》を操って、着陸場《ランデイング・ゾーン》の草を刈っていると、今日も子供たちのやってくる姿が見えた。  紫がかった空を背景に、彼らの白い、丸い身体が、くっきりと見てとれた。  彼らは千切れ雲のように、宙をただよいながら、花に覆われた斜面をこちらへ向かってくる。  わたしは、子供たちに軽く手を振り、万能車《マルチ・カー》をそこで停めると、シートの上で彼らを待った。 「こんにちは、地球人《テラン》」 「こんにちは、マン」  子供たちが、遠くから口々に叫んでいるのが聞こえる。  今日のお客は大勢だ。  てんでに、はずみながら、毬のように飛んでくる。  そして、彼らは、わたしのクルマを取り囲み、あたりを舞った。 「久しぶりだね、マーム……やあ、こんにちは、ラン。それに、リンもいっしょだね……」  わたしは、彼らの白い和毛に浮かぶ縞を読み、見知った子供たちにあいさつを返す。  わたしが彼らを見分けられるのは、ただ、その微かな模様によってだけだ。  彼らには、およそ表情というものがない。個体差も、その縞模様を除けば、身体の大小だけと言えた。  誰《だれ》もが、その白い毛皮に覆われた毬のような胴体に、短い、小さな手足、そして、大きな愛らしい黒い目をふたつ持っている。  空に浮かぶ時は、手足をすっかり毛皮の内側に隠し、まるで風船のように身体と毛をふくらませるのだ。 「マン、今日は仕事だね?」  年かさのランが、そう問いかけてきた。  細い柔らかな毛に、風をいっぱいはらんだランの身体は、わたしの頭の、およそ二倍ほどだろうか。子供たちの中では、一番大きい。もうすぐ、彼は大人たちから本当の�名前�を授けられ、子供のグループを去ってゆくことだろう。 「ああ、そうなんだ……今日は仕事をしていたのさ。この広場は、宇宙を渡って旅する船が降りるための場所だ。いつも、こうやって、きれいに、平らに保たなくちゃならない。そうしなくては、部下たちがわたしを迎えに来たとき、うまく船を着陸させられないかもしれないからね。そうなんだ……部下たちは、わたしと同じ地球人《テラン》なのだが、わたしの目から見れば、操縦はからきしダメさ。いつもわたしばかりを頼りにしていたせいか、いざ自分たちだけで仕事をしろ、と言われると、もう、あたふたしてしまうんだ。しかし、皆、気立てのいい、元気な船乗りばかりなんだが……」  わたしは言いながら、上着のポケットからパイプを出すと、気どった仕草でそれをくわえた。 「マン……そのお迎えは、いつ来るんです? 会いたいなあ……船長の部下たちに……ほかの地球人に会って、また、いろいろな物語を聞かせてほしい……すばらしいだろうなあ……」  マームが、長い毛の間からのぞく黒い大きな目をくりくり動かしながら、そう言った。  彼らの発声部は毛の下に隠れて見えない。しかし、繊細な毛並を震わせて洩《も》れてくる声は、甘く、美しい。マームの声には、わたしに対する隠しようのない尊敬の気持ちが感じられた。 「いや、いや、ダメだよ、奴らはダメだ。なぜって、部下たちは皆若い。これまで、ロクな冒険もしていないのさ。まあ、自慢するわけではないが、わたし以上に、さまざまな星々を巡り、めずらしい、不思議な体験を重ねてきた船乗りは少ないだろうなあ……」  わたしは言った。  そして、再び万能車《マルチ・カー》のモーター・スイッチを入れ、それを走らせはじめた。  クルマを取り巻く子供たちの間から感嘆の声に似たつぶやきが沸き起こる。  わたしはハンドルを切り、クルマをわたしの家の方角に向ける。  どうやら、今日の仕事はここまでにするしかなさそうだ。  可愛らしい客人たちを失望させるわけにはいかなかったからだ。  彼らは、誰もが、わたしの話を聞くためだけに、遠い道のりを風に乗って飛んできたのだ。  わたしは万能車《マルチ・カー》のスピードを上げた。  子供たちもそれを追って、クルマにまとわりつくように飛び回る。  見る見る、カマボコ型の背の低い建物が近づいてくる。  その組立て式の住居ユニットは、長い歳月をわたしとともに過ごしたにもかかわらず、まだ金属の鈍い輝きを保って、そこにうずくまっている。  それが、我が家だ。  わたしの、憩《いこ》いの場所だ。  わたしは万能車《マルチ・カー》を、そのすぐわきへ横づけにした。  そして、シートから降りる。 「マン……この、乗り物は、いったい、どうやって走るの?」  今日はじめて、ここへやってきたらしい子供のひとりが、そうわたしに訊《き》いた。 「ああ、こいつか。こいつは、万能車《マルチ・カー》といって、いろいろな作業をするための乗り物なんだ。いざとなれば、すさまじい速度で、この大地を駆け抜けることもできる。そうさ、このクルマを動かすのにも、大変な訓練と技術が必要なんだ。さすがのわたしも、こいつの操縦を完全に覚えるまでには、そう、十日近くもかかったものだ……」  わたしは車体をなぜながら、子供に言う。 「たった十日で、これが動かせるようになるの?」  シートの回りをふわふわと舞いながら、子供のひとりが驚きの声をあげる。 「いや、いや……きみたちには無理だよ。わたしだから、十日でできたんだ。同じ地球人《テラン》でも、二十日、三十日、いやそれ以上も訓練を受けて、ようやく動かせるようになる代物《しろもの》なんだ。ちょっと間の抜けた奴になると、一生、これは操縦できない。それくらい、難しいものなんだ」  わたしは言った。そして、さりげなく胸を張った。 「マン……あなたは本当に、すごい地球人なんですね。僕たちは、こんな重いものが、地面を走るというだけでも信じられないのに、マンはそれを思いのままに乗りこなしてしまう。しかも、たった十日で……」  ランが、興奮したように宙で8の字を描いた。 「これが動くのが、そんなに不思議かね? そうだろう、それが地球人の科学なんだ。見てごらん、この車の後ろに、銀色の板が張り出しているだろう。これが、秘密の科学なのさ。ここに太陽の光を受けて、それを直接、車輪を動かす力に変えるんだ。つまり、この万能車《マルチ・カー》は、太陽の光で走っているんだよ。どうだ、信じられるかね? でも、本当なんだ。おっと、それだけじゃない。このわたし、マンも、あの太陽の光を食料にするんだ。知っているね? わたしが、きみたちのように、花の蜜《みつ》や樹液を飲んだことがあるかね? あるいは、ドーマのような動物みたいに、地面の草を食べたことがあるかね? いや、地球人は、決してそんなことをしない。わたしたちは昔から、太陽の光を食料にかえて、自分の身体に注ぎ込むんだ。だから、食事などに時間をとられることなく、働き、考え、そして生きることができる……そうなんだ、わたしたち地球人は、眠ることも、排泄《はいせつ》することも、そういうつまらない全てのことと縁がない。分るね? だからこそ、地球人は、ここまで進歩することができたんだ……」  わたしは言いながら、家のそばの、柔らかな草の上に腰を下ろした。  回りに、子供たちが集まってくる。輪をつくり、わたしの次の言葉を待っている。 「……さて、今日は、どんな物語にしようか? 惑星ガノンの野蛮な生き神さまの話はどうだ? まだ、こいつは、誰にも話していなかったような気がする……」  わたしはパイプを手に、子供たちを見回した。 「マン……僕たちみんなが、とても聞きたい話があるんです。それをお願いできますか?」  子供たちを代表して、ランがわたしに訊く。 「いいとも、言ってみなさい」 「僕たちが知りたいのは、どうして、マンが、この、僕たちの土地へやってきたか、ということなんです。そして、ここにいつまでいらっしゃるのか、それを心配している者もいます。だって、お迎えがやってきて、マンが再び宇宙へと帰ってしまったら、僕たちは、もう誰からも物語が聞けなくなってしまいます。それが、心配なんです。ですから、教えてください……マンが、ここへ、たったひとりでやってきたそのわけ……それから、部下たちが、いつマンを迎えにやってくるのか、それを教えてください」  ランが、ていねいな口調でそう言った。  わたしは、パイプをくわえたり、はずしたりしながら、その質問にうなずいた。 「……よろしい、分った。今日は、それを話そう……」  わたしは、いったん言葉を切り、座り直すと空を見上げた。 「……わたしが、ここへやってきたわけ……それは、ひどく簡単だ。わたしは、冒険船の船長という、素晴らしいが、また激しい仕事に疲れていた。休養が必要だった。そのための、心を休められる星を探していたのだ。そして、わたしは、この星を見つけた。平和で美しいこの星は、わたしの保養地に最適だった。そこで、わたしは、ここに降りてきたのだ。それともうひとつ、わたしが船長という職務をしばらくの間、休もうと決心したのは、部下たちにチャンスを与えるためでもあったのだ。なにしろ、わたしが船長として乗り込んでいては、部下たちはわたしにばかり頼って、自分で物事を判断しようとしない。このままでは、新しい指導者がなかなか育ってこない、とわたしは思った。そこで、良い機会だから、彼らに休養を宣言したのだ……」  わたしは喋《しやべ》り続けた。 「……そう……部下たちは今も、広大な宇宙の探検を続けていることだろう。わたしという指揮官なしに、どこまでやれるか、それは分らない。しかし、彼らは若く、そして優秀だ。きっと今も、無事に星々を巡り続けていることだろう。……そして、ちょうど銀河をひとまわりして、それから彼らはわたしを迎えにくることになっている。それが、いつのことになるか……なにしろ、部下たちときたら、わたしがいなくては、進路ひとつ変えられなかったものだ……だから、まだまだ時間がかかることだろう。だが、わたしは、彼らを待っていてやるつもりだ。こうして、着陸場を整備し、いつでも彼らが降りてこられるよう準備しておいてやる。……そうなんだ、この家の中には、彼らが着陸の合図を送ってこられるよう、通信器が備えつけてある。船が、この星に近づけば、すぐ、その通信器のブザーが鳴りひびく仕掛けだ。それが鳴ったなら、わたしの休暇は終りだ。また、あの、危険に満ちた冒険の旅に出かけなくちゃならない……そうなんだ……いやはや、そうなれば、また目の回るような毎日がはじまることだろうて……」  わたしは言って、わたしの家を振り返った。  その時だ。  まるで、わたしの視線を待っていたかのように、住居ユニットの中から、かん高い、耳ざわりな音が響きはじめた。  ビープ……ビープ……ビープ……ビープ……  わたしの口が、ぽかんと開いた。わたしの回りにいる子供たちの間にも、緊張が走る。 「マン……マン! 音がしています! まさか、あれが……」  ランが、早口で叫んだ。  子供たちがいっせいにざわめきだす。 「待ちなさい! 静まるんだ。確かに、あれは、信号が入電している、という合図のブザーだ。だが、相手が誰と決まったわけじゃない。静かに!……ともかく、わたしは、あの信号を受けなくちゃならない。いいね、静かに、ここで待っているんだ!」  わたしは慌てて、地面から立ち上がった。  そして扉を開いて、家の中にとび込む。  子供たちも、わたしの制止にもかかわらず、まるで風に巻かれでもしたようにぶつかりあいながら、後を追って部屋に入り込んできた。  ビープ……ビープ……ビープ……  ブザー音はさらに高まっている。  発信源が、急速に接近している証拠だ。  その相手がなんであれ、それは、この住居ユニットが発し続けている誘導電波にのって、正確に、この地点をめざしているらしい。  わたしの頭の中が、一瞬、からっぽになった。  ついに、待っていたものがやってきたのだ。  しかし、余りにも長かった。余りにも長くわたしは待ち過ぎた。  空白のあとに、すさまじい混乱が、わたしの頭の中で渦を巻いた。  今まで眠っていたわたしの≪記憶≫が、いっせいによみがえりはじめたのだ。  その記憶と、わたしの人格が葛藤《かつとう》するはざまで、わたしの手は激しく震えていた。  ビープ……ビープ……ビープ……ビープ……  ブザーは、なおも容赦なく鳴り続けている。  ついに、わたしは、通信器のスイッチを押した。     3 「おい、通じたぞ! 誰だ、そっちにいるのは? ドロイドか? ロボットか?」  いきなり、乱暴な声が、通信器から飛び出してきた。 「おい、どうしたんだ!? おかしいぞ、反応はきているのに、答えがない。通信状態をもう一度チェックしてくれ! 地上ステーション、地上ステーション! こちら|Q—S《キユーズ》型|巡航船《タカン》……ステーション、応答せよ!」  マイクの向こうの男は、仲間とやりとりしながら、わめき続けている。  わたしは、それでも、まだ、それに応えることができない。  わたしは迷い、そして混乱していた。 「マン! なぜ、言ってやらないんです!? あなたの部下たちに、わたしはここにいる、と教えてやらないんです!? 彼ら、きっと喜ぶだろうなあ、船長と再会できて」  わたしの肩の後ろに浮かぶランが、小さな声で言った。 「ステーション! どうしたんだ? 変だ、まだ応答がない。なにか、ぶつぶつ声は聞こえるんだが、どうも、はっきりしない……」  マイクの向こうの男が、そう言って舌打ちした。 「そいつ、壊れてんじゃないのか? どうせ、旧式のドロイドか、ロボットの探査体だろう。相当、大昔に、この星へ投下されたやつだぜ。環境次第で、もう寿命がつきてもおかしくない。ユニットの発信装置だけが働いて、俺たちを呼んだのかもしれないし……」  マイクのそばで、もうひとりの男が喋っている。  それが、聞こえた。 「いや、確かに通信はつながってるんだ。おい、答えろ! なにをしてやがる!」  男が、やけ気味に怒鳴った。  わたしは、ちらりと背後の子供たちを盗み見た。  彼らは一様に、部屋の中に浮かび、そして不安気に身体をゆすっている。  思わぬ成り行きに、当惑しているのだろう。 「マン……」子供たちの誰かが、悲しげにつぶやいた。  わたしはようやく心を決めた。  そして、こちらの送信マイクに顔を寄せた。 「|Q—S船《キユーズタカン》、こちらステーション。長い船旅、ごくろうでした」  わたしは、威厳を失わぬよう、そう、短く言った。 「おっ! 出たぞ、探査員だ!」  向こう側が、にわかにさわがしくなった。 「探査員、型式ナンバーを教えてくれ。相当長く、そこにいたらしいな。どうした、故障でもあるのか? 大丈夫だ、俺たちが降りたらすぐ修理してやるよ。さあ、ナンバーを言ってくれ。それより、あんたはドロイドか? それとも、ロボットか?」  マイクの男が陽気に問い返してきた。  わたしは、また一瞬、答えにつまった。 (……ドロイド……ロボット……いや、違う! わたしは地球人《テラン》、人間《マン》だ!) 「|Q—S船《キューズタカン》! こちら、ステーション。わたしはドロイドやロボットではない。地球人マン、だ。諸君を待っていた。歓迎する」  わたしは一気にそう言った。 「マン? そいつは、どういうタイプだ!? まあ、いい。話は降りてから聞こう。本船はすでに大気圏外縁に達している。これから、全員|降下艇《ボート》でそちらに向かう。指示ビームははっきり捉《とら》えているから、誘導は必要ない。なかなか、良さそうな星じゃないか。じゃあ、迎えを頼むぞ、マン」  通信が途切れた。  わたしは、ゆっくりと立ち上がった。  そして、見守る子供たちを振り返った。 「……さあ、今日は、帰ってくれ。どうやら、ひと仕事しなくてはならないようだ。聞いての通り、彼らは、わたしの忠実な部下たちじゃない。ひとつ、礼儀というものを教えてやらねばならない……」  わたしは、ボソボソと言った。 「マン、でも、彼らも地球人なんですね?」  子供のひとりが好奇心を抑え切れずに訊く。 「……ああ……まあ、そうらしい……だが、どうやら余り上等な地球人ではなさそうだ。そんな奴らを、きみたちに会わせるわけにはいかない。今日は、みんな帰ってくれ……」  わたしは言った。 「マン……あなたは、その地球人といっしょに、宇宙へもどってしまうのですか?」  再び質問したのは、マームだ。 「……いや……分らん……分らないんだ……」  わたしは首を振りながら、彼らを追い立てるように、戸口へ向かった。 「さあ、帰ってくれ。急いで! 船が降りてくると、大変な風が吹きまくる。それに巻き込まれんように……」  言いながら、わたしは空を振りあおいだ。  太陽の反対側に、キラリと光るものがある。それが、見る見る大きさを増してくる。  微《かす》かに、金属的なエンジン音も聞こえてきた。  わたしは、手真似《てまね》で、まだあたりをただよっている子供たちに別れを告げ、一歩一歩、着陸場《ランデイング・ゾーン》めざして進んでいった。  と、降下艇《ボート》が、すさまじい轟音《ごうおん》とともに、わたしの頭上を通過した。  そして大きく弧を描いて、引き返してくる。  わたしは、その機影に手を振った。  降下艇《ボート》はゆるやかに高度を下げ、そして着陸場の地面へ滑り込んできた。  わたしは、そこへ向けて、足をひきずりながら走った。  彼らが言った通り、わたしは老いていた。足の調子もよくなかった。 (……だが、わたしは、地球人《テラン》だ……人間《マン》だ……)  わたしは必死で、自分にそう言いきかせた。  土煙がすっかりおさまると、降下艇《ボート》のハッチが開いた。  人影が見える。全部で八人。男が六人……それに女が二人だ。  彼らは一様に、軽作業用のスペース・スーツに身を包んでいる。しかし、ヘルメットはかぶっていない。この惑星の大気が、呼吸可能であることを、すでに確かめたのだろう。  タラップを伝って彼らが降りてくる。  皆、恐る恐る、鼻をうごめかせて空気を嗅《か》いでいる。しかし、それはすぐに、歓喜の叫びと深呼吸に変わった。 「やあ、まったく、信じられん! 素晴らしい星じゃないか」  ひとりがわめいた。 「どうして、今まで、誰も目をつけなかったんだ!? おかしいじゃないか、探査ユニットが、ちゃんと送り込まれていながら……」  もうひとりが言って、わたしをにらみつけた。 「なんだ!? おまえ、やっぱり、ただのドロイドじゃないか。�マン�なんて名乗るから、人間でも漂着しているのかと思ったぜ」  男は無遠慮に、わたしの頭の先から足の先までをねめまわす。 「こりゃ、しかし、相当な旧型ユニットだなあ。もう表皮がはがれかかってるじゃないか。一体、なんというタイプなんだ、え? おまえのタイプは?」  男が、あごを突き出して、わたしに訊いた。 「知ってるぞ……こいつは、二百年以上も前の型だ。人格転写型《モデル・マン・タイプ》のアンドロイドさ。地球人�モデル・マン�の感情、感覚をすっかりプリントした素子を使っているんだ。ボディも、この通り、人間そっくりに作られている。当時の探査用ドロイドは、ほとんどがこの型だ。こいつを一体送り込むと、それだけで、惑星環境を、ほぼ人間の感覚レヴェルで認識し、報告してくる。実に便利なユニットだったわけだ。で、当時、やたらとこいつを星系ごとにバラまいたらしい。俺も、以前、上陸した星で、この生き残りを見たことがある。もっともそいつは、すっかりスクラップになっちまってたが……それに比べれば、こいつは上等さ。よほど、この星の環境が、こいつに、つまり人間に適しているということだろう」  一番年かさと見えるひとりが、わたしの身体をなで回しながら、そう説明した。 「モデル・マン・タイプ、か……なるほど、それでさっき、自分が�マン�だとかなんとか名乗ったわけか」  通信器の声の男が言いながら、わたしに近づいてきた。 「ねえ、そんなことはいいわよ。それよりもジョン、ほんとに良さそうな星じゃないこと? どうするの、この惑星の命名権は? 順番からいうと、あなたになるわけだけど、ここはどうみても、女性的な環境だわ。ねえ、あたしに権利をゆずらない?」  女のひとりが、男に腕をからみつかせながら鼻声を出した。 「待ちなさい。まだ、ここが植民基準に合致すると決まったわけじゃない」  一番後ろに立っていた上背のある男が、ふたりをにらみつけながら、ぴしゃりと言った。どうやら、彼が、リーダーらしい。 「さて、マン君……」その男が、今度はわたしを正面に見据えて口を開いた。「きみは、探査ユニットのアンドロイドだね?」  彼の口調には、有無《うむ》を言わさぬ厳しさがあった。それが、わたしの人格を、率直なものにした。 「はい……わたしは、モデル・マンのプリント型PDS・三〇〇〇ユニット……です」  わたしは言った。そう言いきることで生じたわたしの内部的葛藤によって、わたしの肩がかすかに震えた。 「なるほど……で、PDS君。きみはなぜ、この惑星に関するデータを、これまで送信してこなかったのだね? きみは一体、いつからここに送り込まれているんだ? 教えてくれたまえ。この惑星は、どう見ても植民基準に合致している。いや、それどころか、完全な理想郷とすら言える。軌道を周回しながら観察した範囲では、どうやら知性体による文明も育っていないようだ。なぜ、報告しなかった? 我々は偶然、この星系の近傍で跳躍《ジヤンプ》しようとして、ユニットの誘導電波を捉えることができた。しかし、過去の記録を照合しても、この星から環境データが送り出されたという事実は発見できなかった。なぜだ? 理由はなんだ!? この星に、植民に不適当な、致命的要因があるとでもいうのかね?」  男は、わたしの目を見つめたまま、そう言った。     4 「わたしは、この星に、地球時間で百六十八年住んでいました……」  わたしは話しはじめた。 「……わたしは、わたしは、つまり……この星が好きです……」 「住んでいた、だと? このドロイド、まるで人間みたいな喋り方をするぜ」  若い男が、嘲《あざけ》るように笑った。  リーダーが、それを制して、なおも、わたしを見つめた。 「……わたしは、まず、この星を方々旅して、さまざまなデータを収集しました。そして、そうするうちに、わたしは、この星が、とても好きになってしまったのです。データを発信するのも惜しく思えるほど、わたしは、この星が好きになっていたのです……」  わたしは半ばわたしの意志で、半ば無意識に喋り続けた。 「……わたしは、さらに長い間、旅を続けました。そして、自分ひとりのためにデータを貯《た》め込むことを思いつきました。と同時に、わたしは、独りで過ごす長い長い夜の間に、数々の、嘘《うそ》の物語を空想することを覚えました。そして、わたしはいつしか、それを子供たちに話してきかせるようになったのです。……子供たちに言葉を教え、そして物語を聞かせました。くる日も……くる日も……」 「子供たちですって? どういうこと? じゃあ、この星には、言葉の分る種族が住んでいるってことなの? そんな……おかしいわ。わたしたち、どこにも町や集落らしいものを発見しなかったじゃない。奇妙な綿毛みたいな生物と、のろまな草食獣、それに昆虫類くらいしか、この星にはいないんじゃないの?」  女のひとりが言いたてた。  わたしは、黙って、あたりの草原を見回した。すると、遠い丘の上に、点々と白い子供たちの浮かんでいるのが見えた。  彼らは、わたしのことを気づかって、すぐには立ち去りがたく、遠巻きに、ここの様子を観察しているらしい。  わたしは、指をのばして、彼らを指差した。 「あれです。あれが子供たちです。彼らは、わたしたち人間の言葉を理解します。それとは別に、彼らだけの言葉も持っている。もっとも、それは、我々には聞こえない方法で語り合われるものなのですが……彼らは、まちがいなく、知性を備えた生物です。そして、植民基準によれば、高度な文化的言語体系を持つ支配種族が存在する惑星は、植民対象から除外することになっていたはずです。つまり、この星は、基準に合致しないわけです。ですから、わたしは、報告の必要なしと判断して、ただ遭難船に備えるために、誘導ビームを発信し、着陸場を整備してきました……」  わたしは言った。 「狂ってるぜ、こいつは。完全に、どこかが壊れてやがる……」  男のひとりがつぶやいた。 「そうよ……自分がすっかり、人間になったようなつもりでいるわ。ドロイドのくせに、報告の任務を勝手な�判断�でとりやめたりして……隊長、どうするつもりです?」  この惑星に命名したい、と言いだした女が、にくにくしげに唸《うな》った。  彼らの視線に耐えかね、わたしは思わず、上着のポケットからパイプをとり出し、それを口にくわえた。 「なんだ!? その木の切れ端は……」  隊員のひとりが眉《まゆ》をしかめる。 「これは……パイプ、です」  わたしは答えた。 「パイプだって!?」 「こいつはケッサクだ!」 「なに? どういうつもり?」  彼らは口々にわたしを嘲った。 「いや……転写型のアンドロイドは、とかくこういう変調をきたしやすいんだ。もとになった�モデル・マン�の個性に、潜在的な異常があったりした場合、それによってドロイド全体のバランスが歪《ゆが》められてしまうことがあるそうだ。例えば、モデル・マンが隠れた�詩人�であったりすると、こういう頭のおかしいドロイドができてしまうのさ。そういう欠陥があったからこそ、このタイプは長続きしなかった。発展型も生まれなかった。現在は、ごく特殊な作業用にしか生産されていない……」  わたしのタイプを最初に言いあてた年かさの男が言った。 「うむ……なるほど……」隊長は、じろりとわたしを一瞥《いちべつ》すると、急に背を向け、隊員たちのほうに振り向いた。 「さて……なにはともあれ、このドロイド君がデータ通信をためらってくれたおかげで、我々はここ百年間で最良の発見と言えるこの惑星の処女上陸を果たす好運に、ありついたわけだ」  隊長は言葉を切り、再び、わたしにちらりと視線を向け、そして胸を張った。 「……いいかね、諸君。現在、我々人類は、かなり劣悪な環境の惑星へも植民者を送り込まねばならぬほど植民星に飢えている。だから、これほどの惑星を発見する者が現われれば、その名が長く星間史に残るであろうことはまちがいない。そればかりか、発見者は一生の間、この世の全てのぜいたくを享受できるだけの報酬も、手にすることができるはずだ。ただし、その惑星が、植民基準に合致していたならば、だが……」  隊長は言って、三たび、わたしの顔を盗み見た。 「なにが言いたいんです!? 隊長、考えを教えてください!」  じれた女のひとりが叫んだ。 「よく聞くんだ、諸君。このドロイドは、我々の発見したこの惑星に、知的生命が存在すると主張している。だが、諸君も気づいたとおり、このドロイドは完全に狂っている。彼の報告を信用することはできない。分るかね? 我々は、この星を再調査する必要がある。そして、危険な生物が存在するようなら、それを�駆除�する義務があるというわけだ」  隊長が、ゆっくり、かんでふくめるように言った。 「分ってきましたぜ、隊長。ええ、分りますとも。俺は、どうも、あの綿毛みたいな生物が、とてつもなく危険な存在に思えてきました。そうでしょう? どうしたって、あいつだけは�駆除�する必要がありそうだ。なあ、みんな!」  若い男が、唇の端を歪めた。その顔は、目前に迫った栄光のために上気している。 「その通りだ、ジャック。きみの判断は、わたしと同じだ」  隊長は重々しく、うなずいた。 「待ってください、なにを言ってるんです!」  たまらず、わたしは一歩前に出た。両腕がぶるぶると震えるのをとめることができない。 「なんだと!? おいぼれドロイドめ、ひっこんでろ! それとも、本当にぶっ壊されたいのか!」  いきりたって、ジャックがすごんだ。 「大丈夫よ、ジャック。ドロイドには、人間に逆らえない倫理回路が組み込まれているんでしょ? どう狂ったって、そういう上位回路の制御は絶対だわ! 回路をはずさないかぎり、ドロイドはただの人形よ。でく人形にしか過ぎないわ」  女が勝ち誇ったように叫んだ。そして、ドロイドの専門家らしい年上の男に同意を求める。 「リンダの言う通りだ。こいつはただの、古ぼけてガタのきたでく人形さ。俺たちに指一本だって触れることはできやしない。よし、決まった。�駆除�だ、あの綿毛どもを駆除しちまうんだ。あいつらは、どう見ても危険な凶獣だからな!」  男の目も、欲望で吊《つ》り上がっている。 「やめろ……やめるんだ……」  わたしは力なく叫んだ。 「行こう! こいつは放っておいても大丈夫だ。一度、母船にもどって、駆除作戦を相談しよう!」  隊長が告げた。そして彼らは、降下艇《ボート》に向けて歩きはじめた。 「……やめてくれ……子供たちに、ひどいことをしないでくれ! 頼む……ここは、わたしの星なんだ! やめてくれ……やめるんだ!」  わたしの声が、次第に熱を帯びた。  同時に、わたしの感性部位のどこかから、激しい怒りと憎悪が吹き出してきた。  と、突然、まるで天啓のように、ひとつの思考がわたしを貫いた。  わたしは、自分の胸に手をあてた。そして、隠されたカバー・ピンを抜くと、胸部側面の覆いをはずす。  そして、ためらうことなくその中に手を突っ込むと、指先でひとつの小さな回路を探りあてた。 (……これだ……これさえなければ、わたしは本物の�マン�になれる……)  わたしは、その回路に指をひっかけ、そして、力まかせに引き抜いた。  全身に、すさまじい�痛み�が走った。  それは、現実の痛みというより、むしろ観念の痛みといえた。  だが一瞬の後、それは消えた。  わたしは走り出した。  足を引きずりながらも、わたしは、降下艇《ボート》に乗り込もうとしている隊員たちに追いすがった。  走りながら、わたしは指に巻きついた回路を投げすてた。それが、俗に�倫理回路�と呼ばれる制御部位だった。  わたしを苦しめ続けていた抑圧が嘘のように消失していた。  わたしは走った。走って、走って、ついに最後尾を歩いていた女のひとりにつかみかかった。わたしのうちに秘められていたドロイドの怪力が、その女の首を簡単にねじ切った。それが最初の犠牲だった。  そして殺戮《さつりく》がはじまった。     5  わたしは、いつものように、着陸場《ランデイング・ゾーン》の雑草を刈りながら、子供たちを待っていた。  ほどなく、丘の上に、白い綿雲のような影が点々と現われる。  それは風に乗り、滑るように斜面を下ってくる。  わたしは万能車《マルチ・カー》をそこにとめ、子供たちが、回りを取り囲むにまかせた。  子供たちは、わたしの肩やひざに舞い降り、心配そうに、わたしの身体を探る。 「マン……昨日は、いったい、なにがあったの?」  マームと名づけられた子供が訊いた。 「マン、あの地球人《テラン》たちは、どうしちゃったの? マンが、あの人たちを埋めているのを、僕らは見たんだ。なぜなの? なぜ、いっしょに、宇宙へ帰らなかったの?」  続いて質問したのは、リンだ。 「マン、なぜなの? あの地球人《テラン》は、マンの部下じゃなかったの? 悪い奴らだったんだね? きっと、そうだ。僕は声を聞いた時から、そう思ったよ、マン。あの地球人《テラン》は、よくない地球人《テラン》だったんだね?」  一番身体の大きなランが、クルマの周囲を跳び回りながら、歌うようにそう言った。 「いや、いや……奴らは地球人《テラン》なんかじゃなかったんだ。それどころか、人間《マン》でもありゃしない。奴らはただの、人造人間《マン・メイド》だったのさ。人間のふりをして、わたしをだまそうとしたんだ。わたしは、それに気づいた。だから、わたしは、奴らを全部壊してやった。そうさ、奴らが人間なんかであるわけがない。奴らは確かに、わたしよりはるかに劣る存在だった。ただ、人間の形をしただけのくだらぬ存在だったんだ……」  わたしは子供たちを回りに呼び寄せた。 「さあ、はじめようか!」  そして、また、新しい物語が、わたしの口から次々と流れ出すのだった。 角川文庫『邪火神』昭和58年3月25日初版刊行